アントウェルペン攻囲戦(1584-1585) Beleg van Antwerpen

Allegorie auf die Übernahme von Antwerpen

Hans Vredeman de Vries (circa 1586) アントウェルペン開城の寓意画
In Wikimedia Commons

アントウェルペン攻囲戦 Antwerpen 1584/7/3-1585/8/17
対戦国 flag_nl.gif オランダ flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 シント=アルデホンデ卿フィリップス・ファン・マルニクス
テリニー卿オデ・ド・ラ=ヌー
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップス
ナッサウ伯ユスティヌス
フェデリコ・ジャニベッリ
パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼ
クリストバル・デ・モンドラゴン
マンスフェルト伯ペーター=エルンスト
マンスフェルト伯カール

パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼをして、その武勇・頭脳・覚悟の全てを注ぎ込んでも尚、絶対的な強固さで立ちはだかる難攻不落の要塞アントウェルペン。それは、亡きオランイェ公の戦術、その遺志を継ぐシント=アルデホンデ卿との知略との戦いでもあった。一年以上の攻防の決め手となったのは、最終的にはパルマ公の忍耐力だったかもしれない。

おまえをここへよこした人間に、かえってみたことを報告しろ。ただし、この橋が破壊されたらその下積になって果てるか、それともこの橋によって貴様たちの町へ侵入するか、それがわしのかたい決意だと、わすれずにつたえるのだ。

パルマ公ファルネーゼ/シラー『オランダ独立史(下)』(現代語送り仮名への変換は管理人)

はじめに

パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼのキャリアの頂点にして、後の歴史にもっとも重要な影響を与えた勝利のひとつ。なお、「パルマ公」はこの時点では存命中のアレサンドロの父親のことなので、ここでの「prince」は「パルマ公子」とでも訳するのが正しいのですが、このサイト内では「(アレサンドロ・)ファルネーゼ」と表記することにしました。八十年戦争がらみの本でも「パルマ公」とはあまり言わず「ファルネーゼ」とされることが多いのは、このような理由があるからかもしれません。

経緯

Schip Fin de la Guerre

Frans Hogenberg (1585-1587) 『終戦』号 In Wikimedia Commons

1579年に北部ネーデルランドで締結されたユトレヒト同盟には、北部の七州だけでなく、南部に属する諸都市も独自に加わっていました。ファルネーゼはそれらの諸都市から重点的に攻囲を進めており、このときにはちょうどアントウェルペンの隣市にあたるヘントを攻囲中でした。アントウェルペンも同盟に参加しており、しかも1年前にはアンジュー公フランソワによる奇襲を市内の勢力だけで簡単に撃退していて(1583年「フランス兵の凶暴」)、その防備にも大いに自信を持っていました。

アントウェルペンは当時ネーデルランド最大の貿易港というだけではなく、北部の反乱諸州との重要な中継点を兼ねていて、街自体も水運によって各地との連絡や補給ルートが豊富で防備も固い要衝でした。ファルネーゼが何を押してでもこの難攻不落の街の奪取の重要性を説いたのは、もちろんこの要塞を自分たちの側に取り込めばその欠点がすべて利点となること、そして数年後にナッサウ伯マウリッツが考えたのと同様、河沿いの要地を押さえれば、そこに付随する近隣の街も自ずと手に入るからということもあります。さらに、この貿易港そのものの価値、国庫への税収や兵への戦利品も大いに見込めます。

ただ、とても正攻法での攻略が困難なことは自明の理であり、ファルネーゼは周囲から大反対を受けます。単に力攻めにするだけでは到底兵力が足りないことはファルネーゼにもよくわかっていました。そこで、街への補給路を断ち兵糧攻めとする計画が立てられます。その間に近隣の街への諜略も続けられることになりました。

戦闘

Kauwenstein

アントウェルペン攻囲戦模式図 In Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)

まずはわかりやすい模式図があったので位置関係のみ(南が上)。

  • 1) アントウェルペン市
  • 2) 舟橋
  • 3) 『終戦』号
  • 4) アントウェルペン艦隊
  • 5) カウウェンステインセ・デイク
  • 6) 連邦議会艦隊
  • 「Schelde」の「el」の両岸) リロ砦・リーフヘンスフック砦

アントウェルペンは河口の貿易港とはいっても、北海までは蛇行したスヘルデ川沿いに80km近く距離があり、北部ゼーラント州との境界までも20km程度あります。この模式図では市中心部から北(下)側へ5km程度の地域が描かれていますが、斜線部はすべて洪水線のために冠水してしまった地域です。現代では、この一帯はタンカーやコンテナ船用の港湾地帯であり、埋め立てによって人工的に陸地部分と運河部分に分けられています。

オランイェ公の暗殺

Schilderij, Prins Willem I - Zaltbommel - 20219641 - RCE

Unknown (16th century) In Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)

ファルネーゼはまず、北海からアントウェルペン入りする際に必ず通る場所、川の両側にリロ砦とリーフケンスフック砦をもつ場所を押さえてここを封鎖しようとしました。南側のリーフケンスフック砦にはマンスフェルト伯、北側のリロ砦にはモンドラゴン将軍と、どちらの作戦にも老将軍が任命されました。

リーフケンスフック砦がマンスフェルト伯によって奪取されたちょうどその日、オランダのデルフトではオランイェ公が暗殺されるという事件が起きていました。

結局リロ砦側の奪取失敗により、この2つの砦によってスヘルデ河口を封鎖する計画は頓挫しましたが、オランイェ公の死は反乱諸州から強力なリーダーシップを失わせ、北部諸州とブラバント諸都市の利害調整を難しくすることを意味しました。ファルネーゼはアントウェルペンの孤立を図るため、ヘントとアントウェルペンの中継地、デンデルモンデを急襲し攻囲に成功します。ここを一週間ほどで陥落させると、周辺の小都市も次々と手にし、その後わずか数日でヘントをも開城させました。アントウェルペンへの重要な補給地であったヘントは、スペインの補給庫に様変わりします。こうしてスヘルデ川の南側の補給路は遮断されました。

アントウェルペンの補給は北のゼーラント側に頼るということになりますが、オランイェ公は生前、アントウェルペン知事のシント=アルデホンデ卿と「堤防決壊戦術(洪水線)」について協議していました。万が一スヘルデ川が封鎖されるようなことがあれば、北側の堤防を破壊して一帯を水没させ、平底船を用いてゼーラントからの補給路を確保するようにという作戦です。早くもこの作戦に頼らざるを得ない状況が到来したのですが、シント=アルデホンデ卿は市の強硬な反対に遭ってこの作戦を敢行することはできませんでした。

これに限らず、8万の人口を擁するアントウェルペン市の中では、さまざまな利害の不一致が渦巻いていました。富裕層と貧困層、旧教と新教、主戦派と和平派、といった相反する党派に属する場合のみならず、数多くの同業者組合の利害が複雑に絡み合っていて、とても意見の一致をみることなど不可能でした。街を見限って逃げ出す者はまだしも、個人・小集団の利益を追求するがために決定に遅延が生じ、結果的に市全体の不利益に向かう速度は加速していきました。

パルマ公の舟橋と「パルマ運河」

Parma's bridge over the Scheldt, built of ships - Schipbrug van Parma over de Schelde

Frans Hogenberg, Michiel Colijn (1616) パルマ公の舟橋 In Wikimedia Commons

一方リーフケンスフック・リロの両砦での封鎖に失敗し、ファルネーゼが次善策としたのは、スヘルデ川に橋を架け物理的に封鎖しようという策です。最も川幅が狭く(それでも500m以上)、蛇行して流れが若干弱くなるカロとベフェーレンの間が選ばれました。両岸に砦が築かれ、その両方から強固な橋が作られはじめましたが、川の中央部は流れが速く、通常の架橋は無理と判断され、船を橋の代わりにすることとされました。問題は、その船をどこから持ってくるかということでしたが、ちょうどこの時にヘントが開城したため、ファルネーゼは東回りのデンデルモンデを通るルートではなく、ヘントから直接北のアントウェルペンへショートカットできる運河(「パルマ運河」)を掘らせ、航行ルートを確保します。

冬が過ぎ3月になると、この約100門の砲で防備された橋梁と舟橋の複合体が完成し、スヘルデ川は完全に封鎖されました。同月、同時に進められていた攻囲でブリュッセルまでが陥落し、アントウェルペンの南側の補給路はさらに細ります。スペイン軍のキャンプでは祝典を催してこれを大々的に祝い、精神的にもアントウェルペン市民の不安を煽りました。

火船

De schipbrug aangelegd door de hertog van Parma 4

Frans Hogenberg (1586) 舟橋への火船攻撃 In Wikimedia Commons

北部の反乱諸州側も冬の間手をこまねいていたわけではなく、シント=アルデホンデの援軍要請に答えるべく準備を進めていました。橋が完成した同じ3月、ナッサウ伯ユスティヌスが指揮するゼーラント艦隊がリーフケンスフック砦の奪還に成功し、リロ⇔リーフケンスフック間を確保します。これによって、舟橋は反乱側の防衛線とアントウェルペン市に挟まれる格好になりました。

一方市側でも、イングランドから派遣されてきた技術者ジャニベッリの指導のもと、スペインの橋を破壊するための試みが進められていました。まずは2隻の爆弾船を用意し、火薬のほかに殺傷力の強い石・鉄・釘・刃物などを満載させます。さらに32隻もの小型船をカモフラージュのための火船に仕立て、これを30分間隔で送り出して敵を撹乱し、最後に爆弾船で止めを刺そうという念の入った作戦です。決行は4月4日の夜と定められました。

しかし火船の投入は数々の手違いで当初の計画どおりはうまくいきませんでした。燃え盛る小型船の船団は一瞬スペイン軍の恐怖を与えたものの、肝心の爆弾船の1隻は狙いと違う場所で爆発し、大量の小型船の火勢も、橋にダメージを与えるほどには至りませんでした。最後に、残ったもう1隻の爆弾船が左側の橋に引っかかったので、兵たちは橋に火が燃え移らないよう消火活動をすべく船に向かいます。反乱側からすると、ここに至ってスペイン側を油断させる目論見だけは成功したわけです。ファルネーゼをはじめ、主だった将校たちも、桟橋と舟橋の境にある砲台で様子を見守ることにしました。

Siege of Antwerp 1584-1585 - Het belegh der stadt Antwerpen in den jaeren MDLXXXIV en MDLXXXV (Jan Luyken, 1679)

Jan Luyken (1679) 中央に「舟橋」、その右下に大型船『終戦』が見えます
In Wikimedia Commons

そのとき突如、一人の旗持ちがファルネーゼの前に身を投げ出して、ここは危険なのですぐに離れてほしいと懇願します。いったんは無視したファルネーゼを、引っ張ってでも連れて行こうとする一兵卒のこの大胆で失礼な行動に驚きつつも、ファルネーゼは大事をとって橋から離れて岸へ向かうことにしました。ちょうど彼らが岸に着いたか着かないかのそのとき、後方で途方もない爆発が起こり、ファルネーゼもその爆風になぎ倒され、一時気を失います。

爆発は「まるで天地がひっくり返ったよう」で、閃光が光ったかと思った次の瞬間には、上から石や弾丸が雨のように降り注ぎ、兵たちはいったい何が起こったかまるでわかりませんでした。川が割れて川底が見えるほどで、その水は両岸にまで押し寄せ、10km先まで吹き飛んだ岩もあるといいます。そして「人が秣のように空を飛び」、800名もの将校や兵士が即死しました。手足の切断などの重傷を負った者もそれ以上で、スペイン軍はパニック状態に陥りました。

ところがこの好機をアントウェルペン市は生かすことができませんでした。この機に乗じて即座にアントウェルペン市とリロのゼーラント艦隊で挟み撃ちをおこなえばスペイン軍の撃退は成功したはずです。それが、偵察のミスで爆弾船は失敗で橋は無傷だったと信じられました。計画が実は成功だったと判明したのは3日も後のことで、その間に橋は修理が済んでしまっていました。が、これはファルネーゼの策のひとつで、実際は橋の左岸側は完全に破壊されていました。それを、艦隊がすぐに動かないようだとみたファルネーゼは、取り急ぎ表面だけに仮の補修を施してダメージの跡を隠し相手の目をくらませたわけです。そして、次に火船が来てもやり過ごせるよう、舟橋を可動式にするような細工も追加で実装させました。

「堤防決壊戦術」とカウウェンステインセ・デイクの戦い

Slag op de Kauwensteinsedijk

Frans Hogenberg (1585-1587) In Wikimedia Commons

ここに至ってアントウェルペン市は、とうとう「洪水線」の採用を決定します。オランイェ公が立案しシント=アルデホンデが昨年退けられた策を、今更用いようというわけです。アントウェルペンの北西側全体が水没すればそこを自由に行き来でき、舟橋によるスヘルデ川封鎖も意味を成さなくなります。ただし、舟橋のやや北西にはカウウェンステインスという小高い堤防があり、ここがある限り、ゼーラントからの艦隊はアントウェルペンに近づけません。それを知っているスペイン軍は堤防に5つの砦を築いて防備を固めていました(冒頭の図5)。このカウウェンステインス堤防を切って艦隊の通れる道を作ることが、反乱側の狙いとなります。

5月16日決行された堤防破壊の計画には、ゼーラント艦隊とアントウェルペン艦隊の相互協力が不可欠でした。アントウェルペンからは、水没地帯を通り、火船に見せかけた小型船に兵士を満載して送り出しました(冒頭の図4)。スペイン兵が爆弾船を思い出して躊躇している隙に、兵士たちは堤防の向こう側で待ち構えていたゼーラント艦隊(冒頭の図6)と同時に堤防に上陸し、鋤や鍬で堤防を崩しにかかります。ここからは完全に人力での作業です。

堤防を守る守備隊との数時間にわたる激しい攻防の末、ようやく堤防に突破口が開かれました。あくまで突破口で、艦隊を通すにはほど遠く、まだまだ作業を続けなければなりません。ところが、積み込んでいた物資を堤防の向こうのアントウェルペン艦隊に手渡すことができるようになったため、ここで掘削作業の人員が次々と物資の積替作業をはじめました。「この事変の全期間を通じて市民の責任とせざるをえないあの首尾一貫的態度の欠如が、こにおいてもいかんなくあらわれたのだった」とシラーも書いているように、反乱側は、ここで船が通れるまで掘削を続けるよりも、物資を積み替えて運んだほうが早いし楽だと判断してしまいました。何より、ゼーラント艦隊のホーエンローエ伯とアントウェルペン艦隊のシント=アルデホンデ卿、この両側の指導者2人が揃って現場の指揮を離れ、我先にこの快挙を告げるべくアントウェルペン市内へ向かってしまったことが致命的でした。大雑把な性格のホーエンローエ伯はともかく、慎重なシント=アルデホンデ卿までがここで事を急いてしまったのは、痛恨のミスと言わざるを得ません。

その隙に、堤防での攻防を知ったファルネーゼは、舟橋の兵をすべて堤防に向かわせ応戦します。堤防の向こう側からはマンスフェルト伯も駆けつけ、両軍の兵力すべてがこの狭い堤防に集結しました。ファルネーゼ自身も剣を手に取り、長時間にわたって白兵戦が繰り広げられました。時間が経つにつれ辺りは引き潮となり、ゼーラント艦隊は沖へと移動を強いられます。時間とともに逃げ場を失う反乱軍に対し、状況はスペイン軍にどんどん有利になり、最終的にこの日の戦いはスペイン側の逆転勝利に終わりました。

余波

Intocht van Parma te Anwerpen 1585

Unknown (1585) パルマ公のアントウェルペン入城 In Wikimedia Commons

使われなかった巨大戦艦、というと、スウェーデン国王グスタフ=アドルフ二世が建造させた『ヴァーサ』が有名ですが、アントウェルペン攻囲戦でも巨大戦艦が建造されていました。その大きさゆえに計算どおりうまく浮かず、ジャニベッリの二度めの爆発船計画をわざわざ蹴ってまで改良を繰り返された、ご大層な名前の『終戦 Fin de la guerre』号です。識者の反対を押し無理にカウウェンステインセ・デイクに投入された『終戦』は、平底船しか航行できない洪水地帯で案の定座礁し、スペイン軍の戦利品(中身だけ剥かれてあとは解体されました)となったうえに、「象」「ノアの方舟」「金食い虫」などと呼ばれて笑いのネタになってしまいました。

その後、メヘレンが陥落して南部は完全制圧され、アントウェルペンの飢餓の危険性が現実味を帯びてきました。街では暴動が起き、街を離れる者が続出し、和平を口にする者も増えてきました。北部では、ナッサウ伯マウリッツと国務議会が強く救援を主張しますが、決定に手間取るうち、8月17日にはシント=アルデホンデ卿がスペインとの降伏文書に署名をおこないます。やっと重い腰を上げたエリザベス女王によるイングランドからの援軍も間に合いませんでした。

調印10日後の8月27日、ファルネーゼは入場式を執り行い、街の鍵を手にしました。それまでの10日間、舟橋は絶好の観光スポットとなって多くの人が訪れましたが、入場式の日にもスペイン兵たちによって祝祭が催されました。数日後、リボンと花で飾られた舟橋でファルネーゼは朝食をとりましたが、これを最後に橋を破壊するよう命じ、翌日から早速解体作業が開始されます。

アントウェルペンは陥落しましたが、より河口に近いリロ砦とリーフケンスフック砦は反乱側が手にしたままだったため、そのままスヘルデ川河口は封鎖されました。プロテスタントの裕福な市民たちが街を追われたことも手伝い、これ以降、中世以来栄えてきたアントウェルペンはその貿易港としての地位をアムステルダムに譲ることになります。

ファルネーゼをもここまで苦しめたアントウェルペンの堅牢さはその後も変わりませんでした。17世紀に入って以降オランダの側からは、ナッサウ伯マウリッツ、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクによって計5度の大規模なアントウェルペン奪還計画が試みられましたが、いずれも失敗に終わりました。

八十年戦争全体を通じて、おそらくこの1584-1585年のアントウェルペン攻囲戦は、攻囲戦の中では一二を争う攻防となったといえるでしょう。

金羊毛騎士

Portrait of Alessandro Farnese (1545-1592) LACMA M.2003.69

Otto van Veen (circa 1585) In Wikimedia Commons

ファルネーゼはこのアントウェルペン開城の功績により、金羊毛騎士に序せられました。騎士団長であるフェリペ二世の甥の彼がこの時期まで団員でなかったのは意外ですが、同年1585年には後の神聖ローマ皇帝ルドルフ二世など、他のハプスブルク家の人員複数を含め全部で16人が叙勲されているので、まとめてのメンバー刷新や増員があったのかもしれません。

ここに挙げたファン・フェーンのパルマ公の肖像。下のラテン語は解像度の問題でよく読めませんが、1585年前後の作ということ、既に金羊毛騎士の騎士団章を提げていること、また、父パルマ公の死に伴って公位を継いだのが1586年であることから、騎士就任あるいは公位継承、もしくはその両方を記念して描かれたものと思われます。

冒頭にも書いたように、この時期がファルネーゼの栄光の頂点でした。この後ファルネーゼは、アルマダ艦隊との共同作戦でイングランド上陸を命じられたり、フランスのアンリ四世との戦いに転戦させられたり、スペイン本国の相次ぐ方針変更に翻弄され続けます。そして、アルプレヒト・イザベラ大公夫妻以外のほぼすべてのハプルブルク系ネーデルランド執政たちが辿った道でもありますが、本国の嫉視や謀反の疑念にも苛まれ、心身ともに病んでいくことになります。

一方のアントウェルペン知事のシント=アルデホンデ卿は、オランイェ公ウィレムの右腕として長らく反乱を支えてた中心人物です。そのオランイェ公の暗殺とほぼ時を同じくして始まったこの攻囲戦を1年あまり指導してきましたが、開城の数ヵ月後にイングランドから派遣されてきた新執政レスター伯の政府により、防衛失敗について糾弾を受け政治の表舞台から退きます。その後は隠居し、著作活動や聖書の翻訳をして過ごしました。

リファレンス


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