ニーウポールトの戦い(1600) Slag bij Nieuwpoort

Sebastiaen Vrancx (1573-1647) - Veldslag (1640) - Sevilla Bellas Artes 22-03-2011 12-07-38

Sebastian Vrancx (1600) 「ニーウポールトの戦い (1600)」 In Wikimedia Commons

ニーウポールトの戦い Nieuwpoort 1600/7/2
対戦国 flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド
flag_es.gif スペイン
勝 敗 ○(△) ×(△)
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
フランシス・ヴィアー
ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル
ホレス・ヴィアー
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
ダニエル・デ・ハルタイング
ニコラース・ファン・デル=アー
オーストリア大公アルプレヒト
フランシスコ・メンドーサ提督
ブッコワ伯ド・ロンギュバル
ルイス・デ・ベラスコ
ファン・デン=ベルフ伯フレデリク

八十年戦争中後期(軍制改革以降)、最大の野戦。奇しくも「関が原」と同年におこなわれ、オランダでは「ブレダの泥炭船」に並ぶ知名度を誇る。軍制改革の成果を野戦で証明し、ヨーロッパ中のみならず海を越えた植民地へさえ広まった大勝利とされる傍ら、本来の目的であるフランドル遠征には失敗し、その後の共和国の内部分裂の遠因ともなった。

これはみなオルデンバルネフェルトや長いガウンを着た連中の仕業だ。われわれは出口のない袋に押し込められようとしている。

エヴェラルト・ファン・レイト/ 岡崎久彦『繁栄と衰退と

はじめに

両軍互いに対峙して戦われるそれらしい野戦としては、軍制改革以降では唯一の戦いのため、八十年戦争の中でもめずらしくオーダーや戦闘配置図が存在しています。多くの野戦がそうであるように、この野戦もそれ自体が当初の目的ではなく、不可避な状況に陥ったことで戦われたものです。しかし参加した当人たちにとっても特別な戦いであったことは間違いなく、多くの将校や議員たちが戦いの様子をこと細かく書き記しており、遠征に出発した6月中旬から、戦いの前日および当日の戦闘の経緯まで時間単位でわかっています。細部まで書き出したら軽く本一冊のボリュームになりかねません。ナッサウ家の一族が活躍した戦いでもあります。ここでは簡単な(つもりでしたが長いです)経緯にとどめ、細かい個別エピソードなどは別記事「ニーウポールトの戦い 番外編」に譲ることにします。

Nieuwpoort Aerial View R01

手前がニーウポールトの街。中央のエイゼル川と海に挟まれた平地が戦場でした。
In Wikimedia Commons (CC-BY-3.0)

ニーウポールトは、エイゼル川河口の南側にある街です。ニーウポールトを背にしてエイゼル川を渡った向かい側が戦場となりますが、ここは西側が北海、残り三方を川に囲まれた広い中州のような砂丘地帯でした。この砂丘地帯の北側の川を越えた先に、共和国の拠点でもあるオーステンデの街があります。つまり目前のスペイン軍を打ち破らなければオーステンデに戻ることはできません。自分たちの後方に退路(レフィンゲの橋)があるスペイン軍に反して、オランダ軍は文字通りの背水の陣を敷くことになります。

経緯

オランダ軍

もとは連邦議会、ひいてはアムステルダムの商人たちによる、「フランドル遠征」の計画が事の発端です。当時海上貿易にダメージを与えているダンケルクの海賊対策のため、というのが建前でしたが、それを実現するには、飛び地である敵地の奥深くに共和国の持つ大半の軍事力を投入する、という、軍部から見れば到底正気とは思えないほど(場合によっては冗談無しに全滅もあり得るほど)の危険を冒す必要がありました。それまでの共和国の戦いはすべて「防衛」や「奪還」であり、今回が事実上初の「侵略」にあたるものである、ということも、二の足を踏む理由となり得ました。

連邦議会、とくに法律顧問オルデンバルネフェルトの強引な決定により遠征の実施が決定されましたが、オランダ軍のナンバー2でフリースラント州総督でもあるナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクは、複数の理由からこの遠征には参加を許されませんでした。連邦議会は彼が最後まで強硬に反対したからという理由で、フリースラント議会は逆にこのような危険に自分たちの州総督をさらしたくないから、という理由です。ほかに東部の守備要員としてホーエンローエ伯の連隊が国内に残されたのみで、6月中旬、総勢で歩兵12000、騎兵2000が海路でフランドルへ向かいました。

歩兵は3つに分けられ、下記のとおり将軍が任命されました。

  • 前衛 フランシス・ヴィアー
  • 中衛 ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト
    ※必ずしも「主力」ではないので便宜的に中衛とします
  • 後衛 ナッサウ伯エルンスト=カシミール
  • 騎兵 ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル

6月30日、2000名のオランダ連隊・スコットランド連隊、後衛司令官のエルンスト=カシミールと騎兵300を砂丘側に残し、オランダ軍主力はエイゼル川を渡って、ニーウポールトの街のすぐ前にキャンプを敷きました。

スペイン軍

ホーエンローエ伯が展開するオランダ東部への攻撃を予定していたスペイン軍は、オランダ軍主力のフランドル上陸の報を受けて、急遽オーステンデ近郊のヘントに兵力を集めます。南ネーデルランド執政オーストリア大公アルプレヒト自身が総司令官として、共同統治をおこなう妻イザベラとともに、夫妻で閲兵を行いました。が、ちょうどこのときは給料未払いのため、スペイン歩兵の2連隊と騎兵1連隊が反乱を起こしていました。そこでイザベラは、銀食器と自身の身に着けている宝石を売って兵の給与とすることを約束し、反乱を収めただけではなく、軍全体の士気を高めることにも成功します。(この反乱3連隊はのちに最前線に配置されます。)

スペイン軍も3つに分けられました。メンドーサが2人いますが、よく言及されるのは提督のほうのメンドーサです。

  • 前衛 ルイス・デ・メンドーサ
  • 中衛 オーストリア大公アルプレヒト
  • 後衛 ブッコワ伯ド・ロンギュバル
  • 遊撃隊(騎兵) フランシスコ・デ・メンドーサ提督

7月1日、ヘントにイザベラを残し、アルプレヒト率いる全軍はいったんブリュージュに移動します。前線の状況は逐一イザベラにも報告されました。

戦闘前夜

「アルプレヒトがブリュージュに大軍を集結させている」という報は、真夜中にオランダ側に届きました。砂丘側に居たエルンスト=カシミール将軍は、自ら小船に乗って指令本部に急を知らせます。急遽将校会議が行われました。

対岸に残した2300人の分隊は、現在四方を水に囲まれ孤立状態です。一刻も早く全軍で合流しなければなりません。しかも、水に囲まれた中州から北に抜けてオーステンデに向かうには、「レフィンゲ」という橋を渡るルートしかありません。この橋を先にスペインに押さえられてしまえば、現在孤立している部隊同様、オランダ軍全軍が退路なく孤立してしまいます。

エイゼル川河口は干潮時こそ徒歩でも渡河可能な水位となりますが、満潮時には不可能です。ローデウェイク=ヒュンテル将軍自らが斥候を行い、折悪くちょうど夜中が満潮で、夜のため架橋工事も不可能、夜明け(8時間以上後)の干潮を待つしか方法はない、という結論に至りました。とりあえず全員が起こされ、キャンプ撤退と土木工事の準備が始められます。

日が変わって7月2日未明、総指令のマウリッツは、自らの従弟であるエルンスト=カシミールに非情ともいえる命令を与えます。対岸の分隊のもとに戻り、すぐに戦闘準備を始めること。明朝スペイン兵が橋を渡る前に、先にレフィンゲの橋を確保すること。本隊が合流する前に、寡兵でスペイン軍全軍を相手にする可能性もある、危険な任務です。フランシス・ヴィアー将軍は強硬に反対しましたが、エルンスト=カシミール本人のたっての希望もあり、この作戦は実行に移されます。

レフィンゲ

Nieuwpoort-Leffinge

Floris Balthasarsz. van Berckenrode (1600) In Wikimedia Commons
「ニーウポールトの戦い」よりレフィンゲ橋の戦い

朝8時。レフィンゲ橋の前にエルンスト=カシミール将軍が到着すると、橋は既にスペインの手に落ちていた後でした。エルンスト=カシミールは一目見て橋を奪還するのは不可能と悟りましたが、まだ本隊は渡河を開始しておらず、このまま戻って合流を図れば、敵に追撃され、戦闘準備の整っていない本隊もろとも攻撃される恐れがあります。そこで彼の選んだ方法は、この場に留まっての足止めでした。少しでも時間を稼ぐ、ということだけが目的の絶望的な戦いを選択したわけです。

同じ朝8時頃、干潮を待ちきれなくなった本隊は、水位が高い状態ながらまずは騎兵から、次に前衛・中衛・後衛の順に渡河を始めました。ニーウポールトの海岸は平地ではなく、700ものこぶのような砂丘が乱立する見通しの悪い地形であり、上陸地点からも橋の位置は見えませんでした。真っ先に自分の騎兵大隊を整え終えたローデウェイク=ヒュンテル将軍は兄のエルンスト=カシミールを案じて斥候を出しましたが、見えるのはスペイン軍だけで、先遣隊がどうなったかは全くわかりませんでした。

朝9時。全軍が渡り終え、将校たちが司令官マウリッツのもとに集まった頃、ちょうど沿岸にヨースト・デ・モール提督の補給船団が到着しました。しかし船団とはいえあくまで物資の補給のための船であり、1万人にのぼる兵士と、兵よりも数が多いと思われる酒保商人たち全員を船に乗せてこの場から脱出する、というには到底足りない規模です。ここでマウリッツは、非戦闘員のみをこの補給船に乗せてオーステンデへ移送することを決定します。非戦闘員とは、

  • 連邦議会議員 …軍隊の雇い主として、戦場には常に何人か同行していました
  • 見学者・客人 …戦争を見学しに来た外国の貴族たちや各国大使など
  • 輜重隊・酒保商人 …女子供も含まれています

などです。もっとも、彼らとて、到底全員が乗りきれる数ではありません。

そこに1人のスペイン軍の斥候がやってきました。ローデウェイク=ヒュンテルは彼を捕まえてマウリッツのもとに引き立てましたが、このイタリア人斥候は、オランダ歩兵2000名の全滅と、騎兵の生き残りがオーステンデに命からがら敗走したという情報をかなり誇張気味に伝えました。マウリッツはこの情報が兵たちに漏れないよう、このイタリア人斥候を捕虜として補給船に放り込みました。それでも将軍たちをはじめ大半の将校たちは、現況から、先遣隊が無事ではないこと、自分たちも全滅の可能性が高いことを充分に理解していました。その覚悟で各隊は配置につき、数時間にらみ合いの状況が続きました。

はじめ、沖合いに去っていく補給船を見たアルプレヒト大公は、マウリッツら将校たちが兵を置いて自分たちだけ逃げたと思い、オランダ軍を殲滅するのは容易と考えました。しかし実際には将校全員と、マウリッツの弟で未成年のフレデリク=ヘンドリクまでが残ったことを知り、逆に大いに奮い立ったようです。

戦闘

下記は、戦闘開始時の各オーダーです。

Schlacht bei Nieuport 1600

ニーウポールトの戦い オーダー図 (1889-91) In Wikimedia Commons (Public domain)

オランダ軍オーダー

  • 前衛 フリース連隊×1、英連隊×2、マウリッツ直属連隊、砲兵中隊
  • 中衛 仏連隊×1、仏・スイス連合連隊×1、ワロン「新乞食」、マウリッツと客人たち、騎兵中隊×6
  • 後衛 蘭連隊×1.5、独連隊×1、騎兵(予備兵)
  • 遊撃隊(騎兵) オランダ騎兵連隊×1

スペイン軍オーダー

  • 前衛 反乱歩兵連隊×2、反乱騎兵連隊×1 (なんだか懲罰的な気もしますが…)
  • 中衛 スペインテルシオ×3、イタリアテルシオ×1、アルプレヒトとその直属連隊、騎兵中隊×6、砲兵中隊
  • 後衛 ワロン連隊×2、アイルランド連隊×1、ドイツ連隊×1
  • 遊撃隊(騎兵) スペイン騎兵連隊×1

戦闘の経緯

Slag bij Nieuwpoort (1600) - 2 Fases

Unknown (1649) “Atlas van Loon” ニーウポールトの戦いより二場面 In Wikimedia Commons

11時。戦闘は、この膠着状態に耐え切れなくなったスペイン側の反乱騎兵連隊が、アルプレヒトの号令を待たず、砲を奪取しようと海岸沿いのオランダ砲兵中隊に向け突撃したことから始まりました。これには前衛に位置していたローデウェイク=ヒュンテルの騎兵大隊が当たり、しばらく応酬が続いたものの、沿岸に留まっていたオランダ船団の援護射撃もあっていったん双方退却します。

正午を回り、次に、互いに前衛に位置していたオランダ軍のフリースラント・イングランド連隊と、スペイン軍の反乱歩兵連隊が激突しました。オランダ前衛はいずれの連隊も、軍制改革黎明期からオランダ軍と行動を共にし、とくにフランシス・ヴィアー将軍のイングランド連隊は最も訓練された部隊だったため、ここで反転行進射撃(カウンターマーチ)が実践され、ある程度の効果があったとされます。しかし満潮に向かう海岸線によって戦場は時間と共に狭まり、起伏のある砂丘上で、砂が舞って視界の悪い中、最終的には白兵戦になってしまったようです。ローデウェイク=ヒュンテルの騎兵隊が、ここで二度目のチャージ(重騎兵突撃)を行い、ヴィアー隊を援護します。

その逆サイドでは、ゾルムス将軍が中衛のフランス連隊と後衛のオランダ連隊を合わせて、スペインテルシオに当たっていました。これはあまり効果がなかったようです。ここでローデウェイク=ヒュンテルの騎兵隊が三度目の突撃で援護します。

翻って前衛では、4時間以上もスペインの前衛と対峙していたフランシス・ヴィアー将軍が、今度はスペイン中衛からの増援・イタリアテルシオの猛攻にさらされていました。彼は何度もマウリッツに援軍の要請を出しつつ持ちこたえ続けますが、マスケット銃の銃撃を受け、二度負傷し、二度目には馬が倒されその下敷きになって指揮の続行が不可能になってしまいました。フランシスの指揮は、弟のホレス・ヴィアーが引き継ぎます。それを好機と、アルプレヒトは後衛のブッコワ将軍のワロン連隊をここに投入しようとします。ここに至ってマウリッツは中衛の「新乞食」、次いでフランス・スイス連隊を相次いで前衛に援軍に向かわせました。

そしてアルプレヒトは、残りの勢力をオランダ本陣に向かわせます。オランダ側も後衛のドイツ・オランダ連隊全兵力でこれを迎え撃ちます。しかし、次第にオランダ側が押されはじめ、それを見た最後尾の酒保商人たち(補給船に乗り切れずに置き去りにされてしまった多数)がパニックを起こして海に飛び込み、たくさんの一般人が溺れ死んでしまいました。いったんここで、戦いの趨勢は決したかと思われました。

マウリッツは、後衛の騎兵予備兵たちが再三突撃を懇願するにも関わらず、ここまで決してそれを許さず温存していました。最後のこの局面で、マウリッツは彼らに突撃を命じます。誰が言い出したかわかりませんが(おそらくこれを口癖にしていたマルセリス・バックスと思われます)、「勝った!」の叫び声をあげながら向かってくるオランダ騎兵に、一瞬戸惑ったスペイン兵の隊列はやや乱れました。さらにここでマウリッツは、三度の突撃で疲労困憊しているローデウェイク=ヒュンテルの騎兵隊にも、最後に四度目の突撃が可能か訊ねます。これを承諾したローデウェイク=ヒュンテルは騎兵たちをまとめ、動きの鈍ったスペインテルシオの側面から攻撃を仕掛けました。また、これらとは別に前衛では、兄フランシス・ヴィアーから指揮を引き継いだホレス・ヴィアーが、イングランド・フリース両連隊の騎馬の将校たちで即席の騎兵隊を組んで、やはり側面からの騎兵突撃を行いました。この時ちょうど海岸から砂丘上に移動させていた砲の準備も整い、援護砲撃も始まりました。これらがタイミング良く連携し、各所でペースを狂わされたスペイン兵は敗走を始めます。アルプレヒト大公はこれを必死に食い止めようとしましたが、次第に自らの身の危険を感じ、撤退せざるを得なくなります。

19時。朝エルンスト=カシミールの先遣隊を壊滅させたレフィンゲの橋を渡り、スペイン軍はブリュージュに退却していきました。

結果と余波

Nieuwpoort munt Nieuwpoort munt achterkant

ニーウポールトの戦い 記念メダル (1600) In Wikimedia Commons (Public domain)

戦場にはスペイン軍の物資もそのまま置き去りにされました。オランダ軍はスペイン軍旗90旒、すべての大砲を戦利品とし、大物メンドーサ提督を筆頭に捕虜700名をとりました。戦死者の数は、両軍互いに自軍に有利に見積もっているので正確なところは分かりませんが、それぞれ2000人前後、オランダ軍に関しては、レフィンゲで敗走した先遣隊と、前衛のイングランド・フリースラント連隊の損害がほとんどを占めていました。

当日はすぐに日も暮れたため、オランダ軍はそのまま戦場にキャンプを張り、翌日オーステンデに移動しました。将校や外交官たちはこのニュースを、オーステンデからすぐに早馬で各地に送りました。数日後には、ヨーロッパの主だった国では「オランダがスペインを野戦で破った」というニュースが、即座にパンフレットとして出版されるまでに広まっています。イングランド女王エリザベス一世が、急使の第一報だけでは満足せず、詳細を聞くためにオランダ大使を即刻呼びに行かせた、というのは有名な逸話です。

フランドルでは、7月5日までオランダ・スペイン両軍は互いに何もせず過ごしましたが、6日になって早速ニーウポールト攻囲戦が再開されます。しかし多数の戦死者と怪我人を出しながら補強のないオランダ軍に比べ、スペイン軍はベラスコ将軍、ファン・デン=ベルフ将軍の援軍が到着し、ニーウポールトの軍備を増強してしまいました。18日まで申し訳程度に攻囲は続けられましたが、遠征計画の存続は困難と判断され、オランダ軍は計画を放棄し本国に戻ることになります。

この戦いが、もともと無理のある計画を推し進めたオルデンバルネフェルト側と、スペインとの偶発的な野戦を辛勝に導いたマウリッツ側の、この後十数年におよぶ対立の最初の溝となったという見解は、ほとんどの研究者の一致しているところです。もっと短期的には、翌年からはじまる、大公アルプレヒトによるオーステンデ攻囲戦の直接原因となっています。

この野戦でのオランダの勝因も、大きなところでは軍制改革の成果であるとか、具体的なところではマウリッツの温存策が効いたとか、様々に言われています。少なくともスペイン側は、逆光で向かい風だった、という立地上の不利があったのは事実です。それでも展開時のモチベーションとしては、明らかに楽勝ムードのスペイン側に比べ、オランダ側は相当に悲壮な覚悟で臨んだのであり、「スペイン軍敗走」の報が確実性をもってもたらされたとき、総司令官のマウリッツは膝から崩れ落ちて、神の名を呟いたまましばらく立ち上がれなかったほどでした。偶然や運とまではいえませんが、オランダ軍の当人たちも、戦いの直後はなぜ勝ったのかわからなかった、というのが正しいところではないでしょうか。

ニーウポールト市では、西暦2000年の「ニーウポールトの戦い」400周年記念として、市内の公園のひとつを「Prins Mauritspark」と改名して銅像を設置しました。公式リンク Prins Mauritspark

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。ヘンティは小説。

  • 軍事史・軍制改革 カテゴリ内の書籍
  • Van Der Hoven (ed.), Exercise of Arms, 1997
  • Motley, “United Natherlands”
  • G.A.Henty, By England’s Aid, 1890
  • Markham, “Veres”
  • Firth, “Tracts”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”

日本語文献

「ニーウポールトの戦い」は、やはりこちらもおそらく八十年戦争内では唯一、日本語で個別戦闘の詳細が読める戦いです。当サイト「図書室」で紹介しているものは下記の4つ。

これらの内容はすべて英語由来であり、この記事内容とは若干ずれがあるかもしれません。それぞれ図があったり、見比べるのも面白いです。たとえば 『戦略戦術兵器事典』と『歴史群像』は、書き手は違いますが、同じ編集部ということもあり、ソース文献は明らかに同じと分かります。『戦闘技術の歴史』は、ウィレム=ローデウェイクとローデウェイク=ヒュンテルを取り違えています(これは訳の問題ではなく原文の英語の時点での間違いです)が、そこさえ気を付ければかなり細かく内容がわかります。


 * 著作権物の引用・参照のポリシーに関しては、「参考文献一覧」および「サイトポリシー」を参照ください。

関連記事