八十年戦争 軍制改革
八十年戦争期オランダ共和国の軍制改革は、一般的に「ナッサウ伯マウリッツの軍制改革」として知られ、近代軍隊の先駆けとなったさまざまな改革です。正確には、マウリッツ、ウィレム=ローデウェイク、ヤン七世(ミデルステ)の3人のナッサウ伯が中心となって行われました。
「軍事革命」と「軍制改革」
「軍事革命 Military Revolution」という言葉は、イギリスのスウェーデン史家ロバーツが提唱したのが始まりです。その概念をパーカーが批判的に拡大させました。細かく言いだすときりのない難しい概念でもありますので、ここでは簡単に触れるのみにします。
- ロバーツ → 1560-1660年の100年を革命の期間とし、マウリッツとグスタフ二世アドルフの新たな隊形や常備軍の創設を評価しました
- パーカー → 期間をイタリア式築城術の発達した1500-1800年の300年に拡大し、非ヨーロッパや海戦についても論じました
- エルティス → さらに十六世紀のみに「革命」の重点をおきました
いずれも、斉射などに代表される火器の「効果的な運用」(「運用」であり「発明」ではありません)を高く評価している点は共通しています。が、「革命」ということばは「突発的」という要素を含むものであり、世紀単位、ましてや300年以上もかかる悠長なものではない、という批判もあります。このような批判に限らず、極端にいえば、研究者によって時代範囲も地理的な範囲も違う、といっても過言ではありません。多くの研究者の論点をまとめた論文集なども、読みきれないほどたくさんあります。いずれにしても、インターナショナルかつ中長期的な概念です。
局地的な場合は「改革」(Reformation)とされ、日本語でも一般的に「軍制改革」と表記されることが多いようなので、このサイトでも「軍制改革」という表現に倣うことにしています。また、「軍制改革」の前に「オランダの」「スウェーデンの」「ナッサウ伯の」等として、できるだけ限定的に用いるようにしました。また、この概念の提唱・議論はいずれも英語のため、原語はオランダ語ではなく英語を付しました。
オランダの軍制改革の特徴〔制度〕
1. 「常備軍」の先駆け
ナッサウ伯マウリッツが常備軍(的なもの)の創設の概念に触れたのは非常に早く、16歳で入学したレイデン大学時代です。直接人文学者リプシウスに師事したことがきっかけとなりました。その後父オランイェ公ウィレムの暗殺を経て、1587年にマウリッツは若干20歳で陸海軍総司令官に任じられますが、当時のオランダ軍は、ほとんどが外国の傭兵で成り立っていました。また、共和国内からの人員の徴募はもっぱら志願制に頼っていました。オランダ人志願兵は、1590年の時点で約10,000人でした。
この寄せ集めの軍隊を、常備軍「的」に機能させたのは、下記の2点の改革によります。
a. 給料の定期的な支払
当時の傭兵の給料は滞るのが普通でした。ので、給料不足を補うため、傭兵軍が街や村を占拠した際には必ずといっていいほど略奪が行われました。とはいえ、街を占領できることはどちらかといえば稀であり、慢性的に傭兵は困窮していました。解雇されてしまえば、傭兵はほぼ野盗と同義の武装集団に過ぎませんでした。
そこで共和国では、戦時はもちろん、戦闘のないときでも傭兵を解雇せず、定期的に給料を支払い続けました。しかも、一般の兵士に「未熟練工よりも高額な給与」を支給します。一般兵は通常の月給でしたが、将校に関しては42日に一度の支払でした(「将校の一ヶ月」と呼ばれます)。また、騎兵将校は自前で馬を維持管理しなければならなかったので、給与は歩兵将校の1.2倍程度に割増されます。いずれにしても定期的な給料の支払は、兵力を維持できるだけではなく、不要な略奪の防止にもなりました。「17世紀の通貨価値」も参照ください。
もちろん、オランダが中世以来商業が盛んな「金持ち国家」で、軍隊規模も小型だったため可能だったことでもあり、それでいても、時には軍費がかさみすぎて給料が遅延することもありました。
b. 訓練と命令系統の統一
通常非戦時には傭兵は解雇されます。が、上述のとおりオランダ軍の兵や司令官たちは解雇されることはなく、毎日のように、それぞれ射撃や行進・展開などの訓練を受けていました。その訓練に対して給与が支払われていたわけです。訓練は非常に厳しいもので、その隊の中で最も良く出来る者に合わせる方式が採られていました。脱走兵も出たようです。
早くも1591年頃までには訓練のシステムの骨子はできあがっていたようです。ナッサウ伯ヤン七世が1599年頃に作成したスケッチをもとに、1607年には歩兵の教練本『武器教練』(NL: Wapenhandelinghe/ EN: Exercise of Arms)が、画家デ・へインの名で出版され、標準マニュアルとして使用されました。

ヴァルハウゼン『騎兵教練』(1616)よりサーベルチャージ訓練 In Wikimedia Commons
また、指揮命令系統も統一されました。命令の種類や文言が統一され、命令がよく聞き取れるよう、兵は沈黙を求められました。多国籍軍のためラテン語が基本でしたが、部隊単位(だいたい出身地別)となればその限りではなかったようです。「オランダ人とマルチリンガル」も参照ください。将校の階級も細かく定められ、身分や出自にかかわらず、在勤年数に伴う昇進も可能になりました。
◆
マウリッツが、将校に必要な素質として第一に求めたのは、「勇気」でも「力」でも「愛国心」ですらなく、実は「数学」です。実際に塹壕の設計や弾道の計算に役立つことももちろんですが、行進・展開などの組織運用法を士官同士で共有できたり、短い命令でも的確にその指示に従うことができる能力が求められたわけです。そのため、旧来の傭兵気質の司令官は淘汰されていき、組織を機械のように動かせる者が重用されていくようになります。また、将校に限っては、プロテスタントであることが必須とされました。(兵士レベルだと、カトリックでも入隊は可能だったようです)。
なお、「徴兵制」を伴う正確な意味での「常備軍」の創設は、スウェーデン国王グスタフ二世アドルフの改革まで待たねばなりませんでした。共和国では上記の教練マニュアルの出版のほか、攻城戦の見学、軍学校の開設など、外国人(対戦国であるスペイン人相手にすら)への軍事技術情報の開示はかなりオープンなものでした。が、「オランダ人」から成る部隊は共和国軍の中でも少数派であり、未だ兵の数を揃えるには傭兵に頼らざるを得ない状態でした。そのため、あらかじめこのオランダ型を取り入れた傭兵隊を雇うのが手っ取り早いとして、普及に積極的だったとも考えられます。
2.軍法の制定と規律の強化
マウリッツが陸海軍総司令官になった3年後の1590年には、早くも共和国軍の軍事規約が公布されています。たとえば、
- 暴言: 3日間水とパンを与えずに独房入り
- 再度の暴言: 焼けた鉄で舌を突き通し、財産没収及び免職
- 強姦・不倫・放火・窃盗・暴行・「人間の本性に反する背徳行為」: 死刑
- 未亡人・産婦・その他の婦人への暴行: 俸給及び通行証なしで免職
- 指揮官に無断の集会: 絞首刑
- 佐官の命令なしでの不動産の破壊・焼却: 体刑
- 敵への金銭要求: 特赦なしで死刑
などなど。結構厳しいものです。実際、1591年・1592年の遠征の際には、住民から帽子やナイフなどを盗んだ兵が、全軍の前で、見せしめの絞首刑や銃殺刑になっています。
隊形の改革(下記に詳述します)に伴い、士官の数や種類も増えましたが、士官の任務のひとつには、逃亡兵の射殺というものもありました。傭兵は戦場から逃亡したり、そのまま敵側に寝返ったりすることも多かったのですが、それを許さない絶対服従が課されたわけです。逆に敵方からの寝返りは、引き続き歓迎されました。訓練および絶対服従と、軍法および信賞必罰は、短期間に烏合の衆を規律の取れた集団にするためには効果的なセットだったといえるでしょう。
3. 専門職部隊の創設と武器規格の統一
マウリッツは、シモン・ステフィンをはじめとした数学者・測量技師・地質学者などを集め、弾道学・築城法・兵站などを研究させました。新たに砲兵隊や工兵隊が創設され、このような専門教育や訓練を受けるようになりました。1600年には、シモン・ステフィンに工兵部隊のための専門学校も設立させており、戦闘のない冬期に実践的なゼミをおこなっています。
工兵隊は、塹壕や坑道を掘ったり運河に浮橋を設置したりする部隊です。が、従来はこのような土木作業は現地で住民が雇われるのが通常でした。しかし共和国ではこれを軍人の作業とし、長期戦になる攻城戦においては、工兵隊だけではなく他の一般兵士も、スコップを背負って塹壕堀りをさせられました。従来、工兵や砲兵などの「技術職」は職業軍人とみなされていませんでしたが、一般の兵士(場合によっては将校)も同じ作業を行うことにより、同じ土俵にまで引き上げられたのです。この土木作業は、1日あたりで特別手当も支給されました。下記は、塹壕を斜めから見ためずらしい図。人馬と比べて大きさのイメージがわかると思います。
このような攻囲戦の方法はマウリッツとウィレム=ローデウェイクが先駆者というわけではなく、30年ほど前にスウェーデン国王エリク十四世が既に試みたことがありました。しかし、狂気を理由に弟たちに廃位されたエリク十四世のことなので、その技術的な試みも狂気の沙汰として顧みられなかったようです。これをナッサウ伯たちが知っていたかどうかも不明です。

ヤンソニウス(1663) 『ザルトボメル攻囲戦(1599) 』 In Wikimedia Commons
また、かつての傭兵は、武器などの装備は自前でした。訓練で動きを統一しても、武器がばらばらでは思ったような効果は出ません。そこで共和国では銃や大砲などの規格を統一して生産し(教会が軍需産業の基地になったこともあります)、支給制にしました。同じ武器を使っての訓練を行うので、訓練の精度も上がることになるわけです。また、この規格統一武器の迅速な補給のため、各地に武器庫も設置されました。
ちなみに、武器は統一されましたが、この時代のオランダ軍にはまだ「制服」はありません。色による自軍の識別方法については、「八十年戦争期の軍装」を参照ください。

バルク(1615)『初期17世紀の歩兵の装備 』 In Wikimedia Commons
このような各種改革がおこなわれると、志願兵の徴募・給与等の会計・兵站や補給などをおこなう専門職も必要になってきます。これらは参謀本部として設置されることとなり、将校や事務員を含む参謀職は、1中隊あたり、約1割を占めるようになりました。
オランダの軍制改革の特徴〔戦法〕
1. オランダ式大隊の編成
なんといっても、ナッサウ伯たちが考えたのは「テルシオ」対策です。当時野戦で無敵を誇っていたスペインのテルシオは、最大3000名からなる動く要塞であり、まともにぶつかっては勝ち目はありませんでした。そこでとられた方策が、a.機動性の向上 と b.火力の強化 です。
a. 機動性の向上
オランダではテルシオを小型化し、「オランダ式大隊 Dutch Battalion」と呼ばれる隊形を確立しました。厚みのあるテルシオの後ろ半分を取り払って横長に展開した、つまり正方形を2つの横長の長方形に分けた、というとイメージがわきやすいかもしれません。
まず、基本単位を「中隊 Company」としました。150-200名からなります。これを4-6個組み合わせたのが、「オランダ式大隊」です。これをさらに組み合わせて「連隊 Regiment」とします。
この中隊・大隊・連隊の区分は、軍制改革に関する英語ひいてはそこから訳出された日本語によるものです。当時のColonel(大佐)ランクの人物たち自身が書いたもの(おもに仏語・独語)をみると、Regimentが多用されているのに比して、Battalionの文字はほとんど見かけません(量を見ていないので皆無とは言えませんが)。逆に、タイトルとしてのLiuetenant-Colonel(大隊長または副連隊長)は比較的よく出てくるので、Battalionの文字が出てこないだけで大隊に類するものが存在し、彼等にその単位の指揮をまかせていたものと考えられます。
単位が小さくなったことで、行進時は縦列、戦場で展開するときは横列と、機動性が格段に上がりました。将校の数も増えたので、戦時の状況に応じた細かい指示もできるようになったわけです。将校への指示は、大抵上官から書面で行われました。また、「訓練」というと、銃の扱いなど技術的なイメージが強いですが、この行進・展開の全体的な動きにもかなりの時間が割かれています。
下記の図では、左がオランダ式大隊、右がスペイン式テルシオと思われます。ちなみに、テルシオも単位としては連隊になります。

ヴァルハウゼン『騎兵教練』(1616)より 戦場での展開図 In Wikimedia Commons
b. 火力の強化
野戦では、銃兵の大幅な増員と、野戦砲の導入が特徴です。
槍兵:銃兵の割合は、テルシオでは3:1(16世紀末でも3:2)でした。共和国ではこれを2:3(のちに1:2)と銃兵の割合を多くし、火力を増強しました。テルシオに相対した場合に、正面となる銃兵を増やしたイメージです。また、当時の大砲は基本的には攻城戦用、つまり対城砦用だったのですが、野戦で対人に使えるよう軽量化しました。テルシオは数の脅威ですから、まずは野戦砲の一斉射撃で相手の歩兵人員を削り、その後銃兵の斉射でさらに相手の人数を削る、という戦法です。

レオンハルト・ツープラー(1608)『新幾何学機器』より臼砲 In Wikimedia Commons
攻城戦では、統一規格の大砲のほかに、地雷も多用されました。
大砲での一斉射撃を3回しかけて降伏を要求する、これを繰り返します。早期に降伏すれば降伏条件も良く、攻城戦でも短期決戦の場合は、この方法がとられたと思われます。逆に長期戦の場合に使われたのが塹壕や坑道の削掘と地雷です。この地雷も坑道内で対人に使われることもありましたが、最終目的は城壁の下で爆発させ、籠城している要塞に突破口を開くことでした。
但し、これらの編成の改革も、あくまで防御型ということではテルシオと変わりありません。これをさらに攻撃型に再編成したのがスウェーデンのグスタフ二世アドルフです。
2. 反転行進射撃(カウンターマーチ)
オランダの軍制改革でもっとも特徴的と言われているのが、この反転行進射撃です。古代ローマで用いられ、火器が登場して後は、織田信長が「長篠の戦い」で最初におこなったとされる(現在日本史ではこれを疑問視しています)、「回れ右前進」による連続射撃(斉射)のことです。
参考: 「長篠の戦い」Yahoo!百科事典(渡辺江美子/小学館『日本大百科全書』)
近世ヨーロッパにおいては、この理論は、1594年にウィレム=ローデウェイクがマウリッツに宛てた手紙の中で触れているのが最初とされています。が、実はこれと同じ戦い方が16世紀中頃には既にありました。「カラコール」(カタツムリの意で「車掛かり」などと訳されます)と呼ばれるもので、ピストルを装備した騎兵によって行われたものです。ただ、当時のピストルは射程が5m程度のうえ命中率も低く、よほど近づかないかぎりまず当たらないばかりか、そこまで近づくということはマスケット銃や長槍の格好の餌食になるため、ほとんど実用性はありませんでした。しかも「戦法」というには、逃げの姿勢が強い戦い方でもありました。1574年の「ハイリヘルレーの戦い」(ウィレム沈黙公の弟・ルートヴィヒとハインリヒが戦死した戦い)で用いられたのが、このカラコールが効果のあった戦いの最後とされています。
このカラコールとカウンターマーチの最大の違いは、訓練された歩兵によりシステマチックに行われるというところです。しかし、オランダではほとんどこの方法は、効果的には使われずじまいでした。大半の戦争が攻城戦であり、そのうえ泥炭地や湿地の多いオランダでは野戦そのものがほとんどなく、八十年戦争期間中の軍制改革導入以降では、野戦らしい野戦は1600年の「ニーウポールトの戦い」くらいで、その他の野戦は数百人規模の小競り合いの域を出ないものです。カウンターマーチが実践されたというニーウポールトでは、徐々に満潮になる海岸線に沿った砂丘での乱戦だったため、視界や足元の悪さもあり、この反転行進がうまく機能したかどうか甚だ疑問です。(実際に参加した将校が、「うまくいった」と報告している例もあります)。

銃兵と長槍兵の隊列モデル In Wikimedia Commons(public domain)
反転行進射撃の効果が実戦で証明されるには、やはりグスタフ二世アドルフによるブライテンフェルトの戦いを待たねばなりませんでした。
◆
下記は1640年代の戦争が描かれている映画です。上にずらずらと文字で書いたものが動画で一目瞭然です。ご参考に。
『アラトリステ』 ロクロワの戦い(1643)
『クロムウェル』 エッジヒルの戦い(1642)・ネイズビーの戦い(1645)

アドリアーン・ファン・デ=フェンネ (1624)「エンブレマータ」より
In Wikimedia Commons
実は、軍用望遠鏡の発明もオランダが最初です。「発明」というと語弊があるので、「実用」といったほうがいいのかもしれません。1608年、ハンス・リッペルハイとヤーコプ・メチウスという2人の科学者が、連邦議会に望遠鏡「遠方を見ることのできる管 buyse waarmede men verre kan sien」の特許申請をしました。ウィキメディア・コモンズにはこのときのリッペルハイの申請書の画像が載っていますが、署名が確認できると思います。
“Johannes Lipperhey unsuccessfully requested a patent for the invention of the telescope back in 1608” In Wikimedia Commons
- ハンス・リッペルハイ ……ドイツ生まれ、ミッデルブルフ在住。レンズ職人。特許申請は1608/9/25。「リッペルスハイ」とも表記される(ここでは『オランダ科学史』の表記に倣い「リッペルハイ」としました)。
- ヤーコプ・アドリアンスゾーン=メチウス ……アルクマール在住。フラネケル大学教授。兄で地理学者・天文学者のアドリアーンはフラネケル大学学長。特許申請は1608/10/14。

ファン・メールス(1655)リッペルハイの肖像 In Wikimedia Commons
ほぼ同時の申請だったため、最終的に両者に特許はおりませんでしたが、リッペルハイは特許申請時、ゼーラント議会に対してオランダ軍総司令官であるナッサウ伯マウリッツへの根回しを依頼しており、申請の5日後の9月30日に、早速マウリッツに対して自分の望遠鏡のプレゼンをおこなっています。このとき、ハーグのマウリッツの部屋から、デルフトの教会の時計の文字盤とレイデンの教会の窓が見えたとのこと。(参考まで、ハーグからデルフトとレイデンまでは、それぞれ直線距離で10km弱・15km強です)。このデモンストレーションは成功し、リッペルハイはその場で軍用の望遠鏡を受注することになりました。
このようにリッペルハイが経済的に成功した一方、メチウスは二度と自分の発明を他人に見せなくなってしまい、自分の発明した望遠鏡は死後破壊するようにとの遺言まで残しました。

ファン・メールス(1655)ヤンセンの肖像 In Wikimedia Commons
そもそもこの望遠鏡の元ネタとなる顕微鏡の発明は、リッペルハイと斜向かいに住む同業者・父ハンスと息子サハリアス(ザハリアス)のヤンセン父子によるものです。望遠鏡も実は1590年ごろ既にイタリアで存在していたらしく、このサハリアス・ヤンセンが1604年には試作もしていたようですが、1608年9月にヤンセンがフランクフルトの秋のメッセ(当時からあったんですね!)に行っている隙にリッペルハイが特許申請してしまいました。ヤンセンはこのメッセで望遠鏡を展示販売していたのですが、購入を検討したあるドイツ貴族は、レンズに小さなヒビが入っていたことを理由に購入を控えたそうです。リッペルハイは上に述べたように、特許申請と同時に軍司令官への売り込みまで周到におこなっており、彼の成功は行動力の勝利ともいえましょう。20年ほどのち、サハリアスの息子のヨハネスがリッペルハイによる父親のアイデアの盗用を申し出ており、現代では、最初の発明者はヤンセンとされているようです。
ところでこの時期ちょうどハーグには、十二年休戦条約の使節として、スペイン軍のフランドル方面軍総司令官、セスト侯アンブロジオ・スピノラ将軍が滞在していました。マウリッツはこのプレゼンに、弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクだけではなく、交戦国の親玉ともいうべきスピノラも同席させています。「帆かけ戦車」実験のときもそうですが、現代の軍事機密の考え方からすると、ものすごい気前の良さです。というよりも一説には、マウリッツは自身も自然科学には造詣が深かったため、この単純なつくりを理解して、いずれ普及も大量生産もすぐであろうと判断したということのようです。また、休戦交渉が暗礁に乗り上げたため、ちょうどこの9月30日にスピノラはブリュッセルへ帰ることになっていたので、最後の餞別の意味もあったのかもしれません。
「こんなものをお持ちでは、私の身はもう安全ではありませんね。どんな遠くにいても発見されてしまう」
と驚いたスピノラに対し、フレデリク=ヘンドリクは、
「ご安心を。将軍のことは撃たないよう、兵たちには周知徹底しておきますから」
と笑って答えたそうです。このデモンストレーションのあと、マウリッツとフレデリク=ヘンドリクは港までスピノラを見送りにいっています。(…しかしお互い緊張感ないというか、休戦交渉決裂の当事者同士とは思えないというか…)。
10月、ブリュッセルに戻ったスピノラは、南ネーデルランド執政の大公アルプレヒトとイザベラ夫妻に、早速この話を報告しました。このまま停戦交渉が流れてしまった場合、オランダ側が軍事的にかなり有利になる器具を手にしたことになるからです。マウリッツが持っていたものよりは若干性能が劣っていたようですが、スピノラもブリュッセルで望遠鏡をいくつか試作させ、翌1609年2月にはアルプレヒトもこのプロトタイプを所有することになりました。下記のブリューゲルの絵画は、絵画に望遠鏡の描かれた最古のものとされています。望遠鏡を覗いているのはアルプレヒト大公その人です。

ヤン・ブリューゲル父 (1608-11)マリーモン城の風景 In Wikimedia Commons
また、このときブリュッセルには教皇パウロ五世の特使が滞在していましたが、彼がたまたま技術に明るい人物で、バチカンに宛てて詳細な手紙を書きました。イタリア方面への伝播は、いずれのルートでも、このようにスピノラが起点となったようです。
ちなみに、1609年5月にガリレオ・ガリレイが初めて天体観測をした、というのはとても有名な話ですが、ガリレオはこの特許申請にまつわる噂を知って望遠鏡の自作を試みました。さらに半年間でこの望遠鏡を20倍のものにアップグレードしたとのことなので、原理自体はやはり簡単なものなのでしょう。ロマン主義時代には、ガリレオが望遠鏡のプレゼンをしている絵画がたくさん描かれています。

作者不詳 (19世紀)ガリレオの望遠鏡デモンストレーション In Wikimedia Commons
一方オランダでは、議員たちが自分たちもこの発明品を見たいと要請したため、10月2日に二度めのデモンストレーションが行われました。特許に値するかどうかの判断のためです。マウリッツは「敵の企みが一目瞭然の器具」というメモをつけて望遠鏡を議会に送りました。(が、既にそれを「敵」のスピノラが知っていることについては明記しなかったようです)。特許については保留となりましたが、リッペルハイにはとりあえず製作コストとして300ギルダー支払われることになり、議会によって「両目バージョン」(双眼鏡)開発のリクエストがされました。さらなる報酬600ギルダーは、この双眼鏡の納品時と、先に受注した望遠鏡の納品時に、二度に分けて支払われることが約束されました。
ところでここに同席していたフランス大使のジャナンは、すぐに国王アンリ四世に手紙を書き、駐蘭フランス軍の「セダン出身の兵士」に持たせました。セダンはマウリッツの義弟ブイヨン公の領地ですから、オランダとの交流もとくに盛んだったと思われます。翌月の11月には、早くもリッペルハイの作った2本の望遠鏡がアンリ四世に献上され、1609年4月にはフランスの業者が市販も始めました。イタリアへは、この市販品をフランス人が持ち込んだ、という説もあります。
このように、1609年半ばまでには全ヨーロッパに望遠鏡が伝わりました。しかし当のオランダにとっては、1609年4月の十二年休戦条約のタイミングと重なり、即座に軍隊で実用化されたわけではありませんでした。だからこそ、天文観測分野での発達が先に立ったのかもしれません。

作者不詳 (19世紀)ヴァレンシュタインと占星術師 In Wikimedia Commons
なお、リッペルハイは年内に無事に双眼鏡も納品し(試作品の1本とその後2本)、残金のすべてを得ることができました。双眼鏡に関してはこれが世界初のようですが、19世紀のオペラグラスの普及まで望遠鏡ほど発達しなかったようです。
2011年は「イタリア建国150周年」。ガリレオと望遠鏡の特番がいくつか組まれていました。もっとも、ガリレオ「前」については全く触れられなかったのですが…。
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軍用望遠鏡 / by KOTOYO
洪水線
Waterlinie。英語では Dutch Waterline といいます。堤防を切ることによって河川・運河を人為的に氾濫させ、敵の侵入を阻む、という、まさに「肉を切らせて骨を絶つ」戦法。国土の多くが海抜ゼロメートル以下のオランダならではの国土防衛戦術です。「堤防決壊戦術」ともいいます。

フースデン(北ブラバント)の砦跡(1630年代) In Wikimedia Commons(public domain)
高台に砦をいくつも築き、砦と砦の間の干拓地に水がたまるようにします。この干拓地にも溝や落とし穴を掘ったり、有刺鉄線や地雷も埋められました。水深は、歩兵や砲兵が歩行困難な深さであり、かつ、ボートなどを用いるには浅すぎる、40cm前後になるよう計算されていました。オランダ側も移動困難では困るので、浅瀬でも移動できる、防御側専用のボートも開発されています。敵に侵入を思いとどまらせるか、進撃してきても水面下の罠にかかるか、砦から狙い撃ちされるわけです。
しかし、人為的とはいえ洪水は洪水。場所によっては街が水浸しになったり、農地が塩害でしばらく使い物にならなくなったりとデメリットも非常に大きいため、あくまでも最終手段であり、頻繁に使われたわけではありません。

クランデルト(北ブラバント)の砦跡(1580年代) In Wikimedia Commons(public domain)
歴史は八十年戦争時代に遡り、19世紀には新しい洪水線が整備され、1960年代まで維持され続けてきました(現在も機能させようと思えばできるとか)。19世紀以前のものを「旧洪水線」、19世紀以降のものを「新洪水線」として区別するのが一般的なようです。
なお、アムステルダム周辺の洪水線は、1996年に世界遺産にも登録されています。詳細はサイト内の下記記事も参照ください。
ここでは初期の Oude Waterlinie を取り上げます。ベルヘン=オプ=ゾームから、ブレダ、フースデン、デン=ボスを通り、フラーフェまでの南部・東西に伸びる洪水線です。

南部洪水線 In Wikimedia Commons(public domain)
ところで日本で「洪水」というと、土石流や津波のように一瞬で破壊するような激しいものを想像しますが、国土全体が「低地」のオランダでの「洪水」は、数週間から数ヶ月かけてじわじわと水位を上げていくというものです。もちろん、厳冬期になると溜まった水が凍り効果が全くなくなるので、時期も選びます。
「洪水線」は八十年戦争時代から、何度か用いられてきました。
オランイェ公ウィレム一世

オットー・ファン・フェーン(1574)『レイデン解放』 In Wikimedia Commons
1574年の「レイデンの攻囲戦」では、スペイン軍に包囲されたレイデン市民は兵糧攻めに遭い、飢餓に苦しんでいました。折りしも、反乱の指導者オランイェ公ウィレム一世の弟ルートヴィヒの戦死によって援軍も不可能となり、運河からの物資の補給だけが最後の望みとなりました。
「人為的に」堤防を切って運河の水位を上げることを、議会に議決させたのはウィレムです。が、補給の平底船がレイデンまで至る高台を越えられるかどうかは当初より疑問視され、農地の犠牲と引き換えにするにはあまりにも成功率の低い賭けであるとして、最後まで抵抗に遭った提案でした。
最初に堤防を切ってから2ヵ月後、たまたま嵐が起きてちょうど高潮とのタイミングが合ったため、補給船は一気に城門まで到達しレイデンは解放されました。しかしそれは運にまかせた結果論で、決して何らかのヒロイックなものではありませんでした。また、「敵兵の足を止める」のは目的ではなく、「船の航行が可能なまでに運河の水位を上げる」ことのみが目的であり、スペイン兵が逃亡したのはこれもたまたまで、嵐によるパニックが理由だったようです。
「1583年洪水」
ゼーウス=フラーンデレン(ゼーラント最南端の地域) で、人為的におこなわれた洪水。アラス同盟諸州に隣接する共和国最南端の地域で、パルマ公ファルネーゼの進軍を止めるため、州レベルの判断で堤防が切られました。レイデンとの違いは、当初から「足止め」が意図されたことです。翌年には東ゼーラントでも堤防が切られています。
この時の損害は大きく、湿地には塩が入り込んで泥が堆積したり、地域がそれぞれ島のように孤立するばかりか、海抜下に沈んでしまったところもありました。人が住めなくなった地域から人口が流出し、州への経済的なダメージも大きなものでした。堤防を切ったは良いものの、まったく制御のできなかった結果です。
パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼ

ヤン・ライケン(1679)『アントウェルペン攻囲戦(1584-85)』 In Wikimedia Commons
スペイン軍によるアントウェルペン攻囲戦(1584-85年)の際、ウィレム一世とアントウェルペン市長ファン・シント=アルデホンデは、やはり堤防を切って、パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼの進軍を止める提案をおこなっていました。しかし、牧草地が台無しになるのを嫌った肉屋ギルドの強硬な反対に遭ったこと、またウィレム自身の暗殺により、この方法はお蔵入りとなりました。
逆に、攻め手側のパルマ公のほうが要所で堤防を切って、先に制圧したガンからの物資の輸送のため、スヘルデ川の水運ではなく、この浸水地で平底船を使用しました。上の絵でもかなり広範囲が浸水していて、沈んでいる村も確認できます。この決断に至るまでの紆余曲折が、シラーの『オランダ独立史』にも詳しく書かれています。
ナッサウ伯マウリッツ

シモン・ステフィン(1608/1623)『要塞建築』 In Wikimedia Commons
1586年、おそらく先の1583年/1585年の洪水の反省を受けて、制御可能な「洪水線」、すなわちシステマチックな「堤防決壊戦術」を最初に考えたのは、ウィレムの次男ナッサウ伯マウリッツの師であるシモン・ステフィンだったと言われています。早くも1589年から、マウリッツも「洪水線」の研究を始めました。(これは「軍制改革」に着手した年と同じなので、この「洪水線」も軍制改革の一端だったと思われます)。
上記のように、この戦法は多大な損害も発生するため、マウリッツ自身はこの戦術を行使することにはかなり消極的だったようです。ただ、理論としてはほぼ完成され、実際に土木工事も始められました。「洪水」を使用しなくても、充分に通常の防衛にも役立つからです。1600年前後からは西ゼーウス=フラーンデレンの「共和国=スペイン防衛線」、1605-1606年にはスペイン軍のアンブロジオ・スピノラ将軍対策として、東部エイセル川沿いの防衛線などが建設されています。
「1621年洪水」
十二年休戦条約が明け、一時的に防衛戦力が手薄になってしまったため、やはりスペイン軍の足止め目的でゼーラント州が独自に西ゼーウス=フラーンデレンの「共和国=スペイン防衛線」の一部を切ったもの。既に「洪水線」としての整備や干拓が始まっていたため、1583年ほどの被害はなかったようですが、まだあくまで暫定的な措置にとどまっています。
オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
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パウルス・ファン・ヒレハールト『スヘルトヘンボスからのスペイン軍の撤退(1629)』
(1635) In Wikimedia Commons
マウリッツの後を継いだオランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、この戦術理論についても引き継いでいました。実戦を想定して砦を整備し、「意図的に」この戦術を実践した最初の例は、1629年のスヘルトヘンボス攻囲戦です。スヘルトヘンボスは1601年・1603年の2回にわたりマウリッツが奪取に失敗しており、このときも5ヶ月以上の攻囲が続いていました。最終手段としての「洪水線」を使わざるを得なかった、その難攻不落さがうかがえます。
フレデリク=ヘンドリクはマウリッツ同様またはそれ以上に、環状防衛線を得意としました。街の周辺を数十kmに渡り、文字どおり円形に囲んでしまう方法です。環状防衛線は1590年代の「マウリッツの十年」の頃から用いられ、1625年のブレダ攻囲戦の際にはスピノラ将軍がこの方法で成功しています。スヘルトヘンボスはそれを発展させた「環状洪水線」ともいうべきものです。画像でも、二重の水濠や冠水した地域が見て取れます。
この後、南部の洪水線からユトレヒトを通って北上する、新しい洪水線の建設も始められました。
「フォッサ・エウヘニアーナ」

「フォッサ・エウヘニアーナ」の描かれたルールモント周辺図(1664) In Wikimedia Commons
南ネーデルランド執政イザベラ=クララ=エウヘニアの名にちなんだ運河です。スペイン版「洪水線」ともいえるもの(決壊戦術の意図はなさそうでしたが)で、最終目標はライン川・マース川・スヘルデ川をつなぐ60kmにも及ぶものです。共和国との国境防衛線としながら、ドイツ方面とアントウェルペンを直接水運でつないで、衰退したアントウェルペンを再興しようという目的もありました。
計画は1618年頃から、建築家でもあったスペインのヴェネツィア方面軍司令官、ジョヴァンニ・デ・メディチによって立てられました。その後スピノラ将軍の技術指導で1625年に具体化し、実際に建設が始められたのは1626年9月からです。当時のスペイン=ヘルデルラント州総督ヘンドリク・ファン・デン=ベルフが第一鍬を切望し、8000人を動員したうえで、1628年までにはライン川=マース川間の運河と24の砦が完成しています。
しかし、残り半分のマース川=スヘルデ川間の建設は、スペイン政府の資金難によって1629年にいったん頓挫します。その後、1632年のフレデリク=ヘンドリクの「マース川沿いの遠征」の際、当のヘンドリク・ファン・デン=ベルフがオランダ側に寝返ったこと、翌年の執政イザベラの死もあって、計画は完全に白紙になってしまいました。
アルベルティーネ=アグネスとオランイェ公ウィレム三世

ファン・デル=ミューレン(1690)『ライン川を渡るルイ十四世(1672) 』
In Wikimedia Commons
旧洪水線の最も有名かつ効果的な使用例が、ルイ十四世のオランダ侵攻に対し、オランイェ公ウィレム三世がアムステルダムで用いた堤防決壊戦術です。
オランダ侵略戦争(1672-1678)において、英仏2国から宣戦布告されるという絶対的危機状況の中、スタットハウダー職から遠ざけられていたウィレム三世は、陸海軍総司令官として共和国防衛のために担ぎ出されます。フランス軍がユトレヒトを陥落させ、ルイ十四世自身がアムステルダムに乗り込んでこようとしている最終局面で、ウィレム三世は「洪水線」戦術を決行しフランス軍を撃退しました。

ハレウェイン(1684)フォン・ガーレンによるフロニンゲン攻囲戦(1672)In Wikimedia Commons
ウィレムの判断を強力に後押ししたのが、フレデリク=ヘンドリクの次女でフリースラント州総督ウィレム=フレデリクの寡婦アルベルティーネ=アグネスです。この時、息子が未成年のため亡き夫を継いで摂政をしていました。アルベルティーネ=アグネス(ウィレム三世にとっては叔母でもあります)は、ウィレムに数ヶ月先んじた第二次ミュンスター戦争の折にも、フロニンゲンの洪水線でこの決壊戦術を使用させています。
◆
このように、「旧洪水線」は、結果的にオランイェ=ナッサウ家の指導者が代々伝えることが多くなりました。もっとも、これはある種の焦土作戦のため、突発的な場合を除き、ある程度の地位や影響力のある人物でないとなかなか使えないものなのかもしれません。

作者不詳(1649)「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons
- 設計: シモン・ステフィン
- 依頼者: ナッサウ伯マウリッツ
- 実験場所: ハーグ近郊・スヘーフェニンゲンの海岸
- 実験時期: 諸説あり(※後述)1600/1601/1602
- 実験台数: 2台(大小各1台)
- 定員: 大・28名
- 時速: 35-50km/h(※後述)
メモ
シモン・ステフィンが設計した帆かけ戦車。「戦車」と訳されますが、もともとは、オランダ軍の輜重用に開発を依頼されたものです。天気の良い風の強い日、大小各1台ずつのプロトタイプを出して、海岸で試運転が行われました。上記カラー画像がいちばんわかりやすいと思います。モノクロでも同じような絵がけっこうたくさん存在しています。
具体的にわかっている参加者は、
- シモン・ステフィン
- ナッサウ伯マウリッツ
- ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
- グロティウス …当時二十歳前後
- アンリ・ド・コリニー …フレデリク=ヘンドリクの母方の従兄
- アラゴン提督メンドーサ …ニーウポールトで捕虜になったスペインの将軍
- シュレースヴィヒ=ホルスタイン公ヨハン … デンマーク王クリスティアン4世王弟
- ほか、外国の要人(大使等)
などなど。総勢28名が帆かけ戦車に乗り、約2時間の試運転を行いました。隣に弟のフレデリク=ヘンドリクを乗せて、マウリッツ自身が舵を取ったとのこと。(海に向かってチキンレース、みたいなアトラクション的なこともやったようです)。参加者は大いに楽しんだとありますから、実験との名目ですが、ほとんど外国人の接待とエンターテインメント目的ですね。若いグロティウスも、興奮した様子でこのときのことを書き残しています。
高位高官の捕虜や人質はかなり丁重に扱われたとはいえ、何より敵国スペインのメンドーサ将軍を参加させた意図が面白いです。この頃、軍事機密という概念がなかったわけではないのですが、当時のオランダ軍は、戦争を外国人に見学させたり、このように軍事的なイベントに招待したり、挙句に教練書を公刊したり、相当に気前が良い(?)です。上記の絵だけで単純に判断はできませんが、黒服(カルヴァン派)と色物を着ている参加者の割合も半々くらいな気がします。
当時並行して行われていた(または予定段階だった)オーステンデ攻囲戦の補給用に開発が急がれたと思いますが、実際に本来の目的で使われたかどうかはわかりません。いずれにしても、3年の長期に渡るオーステンデの攻囲戦は、オランダ・スペイン双方にとって技術革新の実験場であったともいわれています。帆かけ戦車の実験はこのとき一度しか行われなかったとする説もあれば、この後、輜重用ではなく、試運転時同様に外国人の接待に使われ続けたという説があるようです。こんな面白いものに一度でも乗った人は本国で自慢しそうですから、需要はありそうに思われます。

ジュスティニアーノ(1609) 「オーステンデ用」のあやしい機器いろいろ
In Wikimedia Commons
原理は、陸上を走るヨットのようなものです。というよりそのものです(日本語でもランド・ヨットといいます)。動力は風のみ。風のある日だったので、この日の実験は大成功でした。が、「風のない日はどうやって動くんだ」とのマウリッツの問いに、ステフィンは「それはそれでまた考えます」となんとも暢気な回答を返しています。
ところでこの帆かけ戦車、オランダの軍制改革ネタでは必ずといっていいほど取り上げられていますが、シモン・ステフィンについて書かれたものをみると、軽く触れる程度か、まったく書かれていないものもあります。確かに、ステフィンのほかの功績に比べれば、明らかにどうでもいい部類のような…。
実験日についての考察

ヤーコプ・デ=ヘイン(1603)「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons
実は、参加者や実験時間などの具体的な数字が残っているにもかかわらず、実験の日にちが明記されている資料は探せていません。日にちどころか年単位で、1600年・1601年・1602年と、資料によって3種類の年号が存在しています。季節もわかりません。春とか冬とかいう説もありますが、絵を何枚も見てみるとけっこう軽装(半袖らしきのも居ます)が多いので、断言はできません。
1600年という説は、メンドーサが居ることから、少なくともニーウポールトの戦い(8月にハーグ帰還)の以降のはずなので、あまり信憑性はないと考えています。オーステンデの攻囲戦が1601年7月4日から、スペインによる攻囲戦の計画自体も1601年に入ってからですから、そもそも「オーステンデ用に開発」とするのも若干時期が早いはずです。
オランダ史関係の文献では1601年と書かれているものが多く、逆に博物館の所蔵品説明文などには1602年と書かれているものが多いです。
ただ、アンリ・ド・コリニーが参加したのが確実であれば、彼は1601年9月10日にオーステンデで戦死しているので、それ以前ということになり、1601年の春~夏という説が有力となります。
1602年説は、右手前に描かれている女性をマウリッツの愛人マルガレータ・ファン・メヘレンとしており、その周りにいる子供が2人なので、1602年と考えているようです。(マウリッツの私生児は1601年と1602年に産まれています)。確かに、リンク先に挙げた絵も含め、多くの絵に女性と子供2人が描かれています。ただ、仮にそうだとしても、絵に描かれたように自力で立って歩ける年齢ではありません。
いずれも確実な説ではないため、もうちょっと検証が必要です。もっとも、実験(または接待)自体が複数回であれば、複数の実施日が並び立つ可能性も大いにあります。
時速についての考察
ステフィンがマウリッツに説明したところによると、「馬で14時間かかるところを、最速で2時間で走ります」。これも資料によって、記載されている推定時速に幅がありますが、馬の時速から独自に考えてみました。
サラブレッドのトップスピードは、約60km/h。しかしこれは、近代以降、「競馬というスピード競技用に改良されてきた品種の馬が、最大3km程度の距離のレースで、瞬間的に全力疾走したとき」の時速です。戦国時代の侍が乗っていた乗用馬は、最大30km/hほど出たといいます。しかしこれも明らかに長距離での時速とは考えられません。そもそも、帆かけ戦車自体が輜重用なわけですから、ステフィンの言った「馬で14時間」というのは、荷馬車の馬の時速のことと考えられます。そうすると時速はぐっと下がって、速くても6-7km/hなので、
- 6.5km/h × 14時間 = 91km
- 91km ÷ 2時間 = 45.5km/h
となり、35-50km/hとある記述とほぼ一致します。だいたい現代の自動車と同じくらいのイメージですね。これでオープンエアなわけですから、グロティウスが「風のように速い」と形容するのもうなづけます。というか、「荷物を積む」という当初の目的からすると、飛んでしまう危険性すらある速さかもしれません。

ポット(1640)フローラの「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons
「チューリップ狂」時代には、風刺画の題材にも使われています。ということは、やはり頻繁に海岸にお目見えしていたのでしょうか。
八十年戦争の期間中(1568-1648)、戦っていた当事者って誰でしょう? 陸軍に関しては実は以外にシンプルで、
- オランダ側 = 反乱軍 → オランダ軍
- スペイン側 = フランドル方面軍
といってしまって差し支えないと思います。
スペインのフランドル方面軍は、1567年から始まったネーデルランド地方の「偶像破壊運動」の対策として設立されたので、ほぼ八十年戦争の起点と起源は同じです。オランダ軍は、直訳すれば「諸州軍」です。諸州(States)にどこまで含めるか、その意味をどう取るかでその起点は変わってきます。
- 八十年戦争の起点と同時 1568年
- 第一回連邦議会開催(1572年)/ヘントの和平(1576年)/ユトレヒト同盟(1579年)のいずれか
- オランダ連邦共和国の成立 1588年
1はウィレム一世の挙兵を起点にしたもの、2はそれぞれ「反乱」の重要なステージ(それぞれ関わる州の数が違います)のどれかを起点にするものです。しかし、軍制改革を経て、明らかに1590年以降の軍隊はその性格が違うため、管理人はここでは3の説をとりたいと思います。
オランダ軍

1597年の低地地方の地図 In Wikimedia Commons (Public Domain)
上記の理由により、「連邦軍」とは訳さず、「オランダ軍」(共和国軍)としました。また、それ以前のものを便宜的に「反乱軍」としています。現在のオランダ軍と混同しないためにも、「共和国軍」のほうがベターかもしれません。
内容はほとんど、メイン記事の「オランダの軍制改革」と同じになりますので、ここではおもに兵の調達方法を中心とした補足説明のみとします。
下記については、「オランダの軍制改革」を参照ください。
「オランダ軍」とは名づけてみましたが、その中身は完全に多国籍軍です。オランダ人の若者の場合、陸軍に入るのと同様、船員になる、という選択肢もありました。どちらも命の危険はありますが、一攫千金のイメージのある(実際はそうでもなかったようですが)船乗りのほうが人気がありました。フリースラント、ドイツ、イングランド、スコットランド、フランス、ワロンなど、おもにプロテスタントの各地から傭兵が集められています。これら外国兵全体と比較すると、オランダ兵は少数派ともいえました。たとえば、「ニーウポールトの戦い」のオランダ軍歩兵は、全歩兵のだいたい1/4程度の数にしかすぎません。
傭兵にも大きく二種類あり、長期に渡って常備軍的に雇われたものと、非常時に従来同様スポットで雇われたものがあります。ここでは基本的に「オランダ軍」構成要素である前者を扱います。後者で有名なのは、1622年ベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦の際のマンスフェルト軍やブラウンシュヴァイク軍、一時的に応援を依頼した各都市のワードゲルダーなどです。
階級とトップ・コマンド
階級図は下記のとおり。サイト内の記述は基本的にこの表に合わせました。
『戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編』の「16世紀における軍隊の指揮組織」図(p.143)に、オランダ共和国軍の項目(最右列)を補足してみました。太字が実際の文章によく出てくるもので、逆にほかはあまり見かけない印象です。
| 日本語 |
英語 |
役割 |
共和国軍の場合 |
| 大将 |
General |
全兵科を指揮 |
Generaal-Admiraal
州総督(Stadhouder)兼任 |
| 中将 |
Lieutenant-General |
副指揮官
※平時は無し |
近年の英語資料では「元帥」とはあまり訳さない * /
便宜的に将官は「将軍」、Marshalの表記のある人物の場合のみ「元帥」としています |
| 少将 |
Sergeant-Magor-General |
戦闘隊形配備責任者
※平時は無し |
|
| 大佐 |
Colonel |
連隊を指揮 |
連隊(Regiment)長 |
| 中佐 |
Lieutenant-Colonel |
大佐不在時の代行 |
騎兵大隊(Squadron)長/歩兵についても「オランダ式大隊」(Batallion)指揮権者と思われます |
| 少佐 |
Sergeant-Magor |
戦闘隊形配備責任者 |
「オランダ式大隊」(Batallion)指揮権者副官と思われます |
| 大尉 |
Captain |
中隊を指揮 徴募担当 |
中隊(Company)長 |
| 中尉 |
Lieutenant |
副指揮官 |
|
| 少尉 |
Second-Lieutenant |
旗手 |
|
| 軍曹 |
Sergeant |
兵站の管理 |
|
| 伍長 |
Corporal |
小さな単位部隊を指揮 |
|
| 兵士 |
Private |
一般兵士 |
|
* 軍制改革系の英語の研究書にあまり出てこないだけで、仏蘭語由来の史料(17-18世紀のもの)だと「Marshal」の表記はあります。
オランダ軍で最も特徴的なのが、トップ・コマンドであるGeneraal-Admiraalです。「陸海軍総司令官」と意訳していますが、海軍の指揮は行いません。君主制国家の場合は自動的に君主の役割ですが、オランダ共和国ではこれは州総督(スタットハウダー)と紐づいています。
が、問題なのがこの州総督で、名前のとおり州別に任命されるものであり、「オランダ全州の州総督」は18世紀になるまで登場しません。もちろん州総督は各州レベルでは問題なくトップ・コマンドですが、全州つまり「オランダ軍」全体となると、便宜上多数の州の州総督を兼ねているオランイェ=ナッサウ家の家長がその役割を担います。その問題については、以下に続く各項目で詳述しますが、「無州総督時代」と呼ばれる州総督不在の時代(但し全州に一人も州総督がいない期間はありません)には、オランダ軍全体としてのトップ・コマンドは存在せず副指令Lieutenant-General止まり、ということにもなりました。「君主」の居ないオランダに特有の問題ともいえます。
フリースラント兵

作者不詳 フリースラントの法廷(16-17世紀) In Wikimedia Commons
上記で、フリースラント連隊を別に書き出してみたのには理由があります。フリースラントも「連邦共和国」の一員ではありますが、やや特殊な扱いです。1594年までに、いわゆる「七州」が連邦を構成することになりますが、そのうちフリースラントとフロニンゲン(北部二州)は、ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクをスタットハウダーに戴いています。あとから加わったフロニンゲンは別としても、「反乱」当初から参加している自負を持ち、もともと言語や文化も違うフリースラントは、とくにホラント州に無条件に追随することを由としない気風があります。残りの五州がナッサウ伯マウリッツをスタットハウダーとしており、連邦全体での軍事行動は便宜的にマウリッツが総指令のかたちをとりましたが、その権限をもってしても、北部二州個別の軍事に口を挟むことはできません。たまたま彼ら二人が兄弟同然に育った従兄弟同士のため、意思疎通や利害調整がそれなりに可能だっただけの話です。
というのも、1590年代から1600年代はじめにかけてのオランダ軍は、常に人員不足に悩まされています。獲得した都市が増えれば国境警備に人員が割かれ、ある遠征で多数の死傷者が出れば、その補充が急務になります。北部で国境警備のために兵が要るといえば、ウィレム=ローデウェイクがマウリッツに依頼し、マウリッツがホラント州議会をはじめ各議会と派兵の折衝をしなければなりません。逆に南部遠征のために兵が要るといえば、マウリッツがウィレム=ローデウェイクに依頼し、フリースラント議会の了承を得て、兵を都合してもらわなくてはなりません。このような件で個人的にやりとりされた書簡はかなりの数があり、「ドイツの諸侯たちにも人員の確保を依頼してみる」とか「市民兵(ワードゲルダー)にとりあえず打診してみる」など、苦労の跡も見られます。
それでもウィレム=ローデウェイクはフリースラントで非常に慕われていたということもあり、これでも良いほうでした。二代後のフリースラント州総督ヘンドリク一世カシミールの時代になると、州総督とフリースラント議会との関係が悪化するため、議会は共和国全体の軍事活動への派兵を議決しなくなります。つまりオランダ軍全体の遠征の際には、フリースラントのトップが自州の部隊を一切持たずに、身一つで参戦したわけです。逆に、次代のウィレム=フレデリクは「無州総督時代」の北部三州の州総督でしたが、これら北部自州の軍隊だけは自由になったものの、最後までオランダ軍全体の指揮権は得られませんでした。
イングランド兵
1585年のアントウェルペン陥落をきっかけとした、イングランドと連邦議会の「ノンサッチ条約」では、エリザベス一世が毎年イングランド兵6,000名の大陸派兵を約束しました。実際、毎年(数のごまかしは多々あれ)イングランド兵が約束どおり送られてきました。彼らは毎年やって来ては、戦争のない冬期になると帰国します。しかしこれも単純な図式ではありませんでした。
たとえばオランダ方面イングランド軍総司令官のフランシス・ヴィアーは、この冬の時期にイングランド国内で、翌年オランダに連れていく兵を自ら徴募しなければなりませんでした。やはりオランダ同様、減数分の補充が必要だったためです。また、この兵の使い道にも、エリザベス女王側から条件がつけられることが多々ありました。1596年は英軍のカディス遠征のため、翌1597年はアゾレス諸島遠征のため、このオランダ派兵用英軍のほとんどが用いられただけではなく、逆にオランダ軍がこれらの遠征のために、イングランドに兵を貸さなければなりませんでした。さらに、1601年以降の「オーステンデ攻囲戦」では、オランダはオーステンデと東南部国境部の二方面作戦を考えていたのですが、「英兵はオーステンデ用にしか用いてはならない」という条件がつけられ、柔軟な運用ができませんでした。
その後1603年のエリザベス女王の死去と、翌1604年の英西による休戦条約「ロンドン条約」によって、「ノンサッチ条約」は効力を失ってしまいます。ただ、新王ジェームズ一世はイングランド兵がオランダで戦うことを禁止まではしなかったため、兄フランシスを継いだ弟のホレス・ヴィアーは、その後も同じように毎年オランダとイングランドを行き来する生活を続けることになりました。
傭兵企業家

ヨースト・アマン(1561) In Wikimedia Commons
新兵徴募の際も、このように楽器を鳴らして人を集めます
「傭兵企業家」というと、三十年戦争期のヴァレンシュタインが有名です。オランダでも規模こそ違うものの、似たような経営手法が各隊長に求められていました。
本来連邦議会は、不公平の生じないよう、自分たちですべての兵の給与を管理するのを理想としています。しかし、ただでさえ急ごしらえの組織である議会がそれを行うのはまず不可能です。そこで連邦議会は、各連隊の連隊長にまとまった金額を渡して、それで独自に自分の連隊を運営することを要求します。つまり、徴募、兵への給与の支払、自分の取り分の配分まで、すべて連隊長の裁量に任せてしまいます。連隊長はさらに自分の隊の各中隊長に、その中から同じようにまとまった金額を渡し、その中隊内での運用は各人の裁量にまかせます。連隊全体に関わる新兵の徴募までは連隊長の責任ですが、中隊レベルに組織されて後は、中隊長個人に責任が移るわけです。これはオランダ兵も、上記のイングランド兵などの長期的に雇われている外国兵も同じです。
もちろんこれは多大なリスクを伴います。連隊長や中隊長がそれぞれ自分の取り分ばかり多くしてしまうこともできます。が、各中隊、そして各連隊の間でも人員不足は慢性的なので、「密猟」と呼ばれる兵の取り合いや引き抜き(ヘッドハント)も常に行われています。兵士同士で、隣の連隊のほうが給料が良いという噂が流れれば、兵が自発的に他所に移ってしまうこともあります。そのほか、武器のデポジット(新兵に武器を貸与し、毎月の給与から割賦でその代金を天引きするやり方)をはじめとして徴募に関わる資金運用に失敗すれば、隊長自身が借金を重ねたり、隊自体立ち行かなくなる可能性すらあります。さらにオランダ軍の場合、非貴族の兵士からでも勤続年数と能力によっては将校になれますから、面倒で部下に丸投げしてしまうと、部下ばかりが成長して自分が追い抜かれてしまう危険性まであります。
もっとも、実際の兵数よりも水増しして給与を申請したり、閲兵のときだけ隣の隊から「見せ兵」としての兵を借りてきて、支払を多く受けるというような詐欺的な手法も行われてはいました。が、一般的に「オランダ軍は給料が遅滞なく毎月きちんと支払われた」といわれるのは、実はこのように、連邦議会のしっかりとした管理徹底のうえに成り立っていたというわけではなく、各隊長たちの自助努力によるところが大きいといえます。
フランドル方面軍


「アラトリステ(3)ブレダの太陽」では主人公はフランドル方面軍として戦います
この時期のスペインはオランダとばかり戦っているわけではありません。イベリア内ではポルトガルやカタルーニャ、地中海においてはオスマン、大陸内でも英・仏・独・伊、さらに新世界やアジアと、正直四面楚歌状態です。オランダにとっては戦っている相手はスペインだけですが、スペインにとってオランダは、この膨大な敵の中のごく一部に過ぎません。それもありここでは、あくまでスペイン軍の中の一部として、「フランドル方面軍」を扱います。
テルシオ

メリアン(16-17世紀) In Wikimedia Commons
典型的なテルシオ方陣です
防御に長けた「動く要塞」テルシオは、近世スペイン軍の代名詞ともいえる有名な隊形です。八十年戦争でも、「反乱」時代の初期にはその威力を見せつけました。1643年のロクロワで大敗するまでこのテルシオにこだわり続けた、ということを、17世紀のスペインの斜陽の原因とする向きもあります。が、その内容を細かく見ると決してそうではないこともわかってきます。
まずはフランドル方面軍の構成を見てみましょう。本国スペイン兵・カタルーニャ兵のほかに、カトリック国ポルトガル、イタリア、アイルランドをはじめとして、ブルゴーニュ、ワロン、ドイツ各地、そして敵国であるはずのイングランド人の兵まで居ます。オランダ軍に負けず劣らず多国籍軍です。八十年戦争の期間全体を通じて、平均60,000人から多いときには80,000人をフランドルで動員できました。オランダ軍が60,000人以上の兵を維持できたのは1609年の休戦以降の話で、それまでは20,000人そこそこが関の山だったことに比べると、スペインの底力が感じられる数字です。
かといってこの中でテルシオを組めるのは、実際はスペイン連隊・カタルーニャ連隊・イタリア連隊くらいなものです。これらはスペインの支配地域出身の兵なので、戦地を転々としながらも常に雇われ続け、こちらもある意味常備軍的に機能しました。古参兵が多いのもテルシオの特徴です。古参兵はどこでも大変重宝されたので、費用もかさみました。逆にその他の連隊(アイルランドやワロンなど)は、人数の問題からもテルシオの規模はなく、臨時雇いの色も強かったようです。たとえば「ニーウポールトの戦い」のフランドル軍は、連隊10のうち、テルシオは4だけで、残りはオランダ式大隊にも似た隊形の連隊です。臨時雇いの隊であれば、この時期オランダ式を取り入れていても全く不思議はありません。その意味でも、17世紀に入る頃までには既に、フランドル軍もテルシオだけに頼っていたわけではないことがわかります。
同じくテルシオの場合、「槍一本あれば誰でも陣を構成することができ、訓練も要らない」ので「将校も突撃とだけ叫んでいればいい」と思われがちですが、 それも誤解です。低地地方では攻囲戦が主流になるので、そもそも1590年以降、オランダ戦線ではテルシオらしい大型テルシオの出番自体あまりありません。オランダ軍のカウンターマーチが多用されなかった理由と同じです。むしろフランドル方面軍は、パルマ公ファルネーゼやロス=バルバセス侯スピノラのように、クレバーな兵站や攻囲戦を得意とする指揮官を排出しており、質の面でも決して軍制改革後のオランダ軍に劣るというものではありません。
ロクロワのわずか5年前の1638年、枢機卿王子フェルナンドはテルシオを用いて「低地地方との戦いが始まって以来の大勝」を収めました(カロの戦い)。このときのテルシオは最盛期とくらべると30%-50%程度の人数で組まれた小型のものですが、その分機動力を兼ね備えることとなり、依然として野戦での脅威であったことに変わりはありません。
スペイン街道

フェリペ二世時代の「スペイン街道」 In Wikimedia Commons (Public Domain)
上記に挙げた画像が「スペイン街道」です。低地地方で現地調達されるワロン兵やドイツ兵は割合が半分にも満たないので、フランドル軍の大半は、本国スペインやイタリアから移送される必要がありました。イベリア・イタリア両半島から、基本的にはいったんミラノへ入り、(1)サヴォイアまたは(2)オーストリアルートでいったんブルゴーニュまで行き、そこからまた(1)ルクセンブルクまたは(2)ライン川沿いを経由してブリュッセルに至ります。
もちろん船を使う海上ルートもありますが、イングランド船やオランダ船、海賊船がうようよ居る海域ですから、余計な海戦を避けるためにも、非常時以外はあまり使われません。つまりスペイン街道を常時使えるようにしておくのが、スペインにとっては最重要命題のひとつになります。三十年戦争の時期のスペインは、プファルツ、サヴォイア、フランスと、この街道沿いの地を巡って戦うことになります。一度となく封鎖され、海路を使わざるを得なくなったこともあります。
たとえばフェリペ二世がサヴォイア公カルロ一世エマヌエーレに王女カタリーナ=ミカエラを嫁がせたのも、この街道の維持が目的と推測できますし、上述のスピノラ将軍は、1620年にプファルツ地方(ライン川沿い)、1629年以降はマントヴァ継承戦争に投入されていますが、「スペイン街道」の地図を見ればその意図は一目瞭然です。オリバーレス公伯爵は、なにも嫌がらせ(の要素がまったく無くはありませんが)だけでスピノラをオランダから転戦させたわけではないということです。
ところでフランドル方面軍は60,000人以上運用できたと書きましたが、実際に一度の野戦や攻囲戦で使えたのは、オランダ側とそれほど変わらずせいぜい20,000人そこそこです。とくに1590年代・1630年代のフランドル方面軍は、フランスとの二方面作戦にもさらされていました。何より国境沿いの守備に割いた人数が多いというのも、オランダ軍と共通しています。フランドル方面軍の場合は200もの国境駐屯地があり、80,000人をそれぞれに単純に割り振ったとしても、1つは400人足らずになってしまいます。場所によっては守備兵が数十名しか居ない駐屯地もかなりあったようです。
給料未払と反乱

ホーゲルベルク「アウデワーテルの略奪」(16世紀) In Wikimedia Commons
兵士の反乱は最高刑が死刑の重い行為ですが、フランドル軍では、この「反乱」も代名詞になるほどしょっちゅう起こっています。スペインが世界各国に展開している軍隊の維持費は天文学的で、何度も国家の破産を経験しており、兵への給料の未払いも数ヶ月単位ではなく半年から年単位に及びます。フランドル方面軍の司令官は代々南ネーデルランド執政が務めていましたが、オーストリア大公アルプレヒトが初めて総司令官の地位を傭兵隊長であるスピノラ将軍に譲ったのは、彼に給与支払能力があったという点も大きかったのかもしれません。
八十年戦争初期の反乱は、略奪や放火などを伴う暴力的なものでした。が、だんだん兵たちも学習してきます。1600年、あるワロン兵の一団は、将校たちを追い出して砦に立て籠もり、その場に来ていたオランダ軍に寝返りました。(詳しくは「乞食党のはなし」の「新乞食」を参照ください)。よりまともに給与を与えてくれるほうを見定め、価格交渉によって他国へ丸ごと自分たちを売り渡したわけです。創作ではありますが、『アラトリステ ブレダの太陽』でも、主人公たちフランドル兵は、比較的平和裏に話し合いで反乱を終わらせています。この物語の1625年時点では、さしものスピノラ将軍も、半年以上給与を払えないほどの貧窮に陥ってしまっています。
三十年戦争を経て、フランドル方面軍もオランダやスウェーデンの軍制改革を取り入れていきます。これら同様に兵士を将校に昇格させたりして将校の数を増やしましたが、逆に増やしすぎてしまい、将校1対兵士4という、非現実的な割合にまでなってしまいました。これが指揮系統の混乱や、さらなる給与未払いの悪循環の原因になったとも考えられています。