八十年戦争期の略奪

[R12くらい]この記事には、暴力的な場面を描いた絵画を多数掲載しています。現代と17世紀当時の倫理観がまったく異なっていることをご理解のうえ、閲覧をお願いいたします。もちろん許容・奨励・賛美するものでは決してありません。

略奪の種類

へんな言いかたですが、略奪にも種類があります。「略奪」の定義を「元の持ち主の了解を得ず、対価も支払わずに自分のものとすること」とすると、かなりその範囲は広くなりそうです。いちおう英単語も併記してみましたが、それぞれの単語の概念もかぶったりしているので、あくまで一例と考えてください。

戦利品 Spoil

Jacob Duck - Dividing the Spoils - WGA6830

Jacob Duck (circa 1635) 戦利品の分け前 In Wikimedia Commons

戦場などで対峙した両軍のうち、敗走した側が現場に残していった物品を、勝利した側が拾得すること。これは略奪の中でも比較的穏健(?)なもので、持ち主が置いて去った後のもの、または持ち主が既に戦死していて、その遺体から奪うものなので、規律違反にも問われません。むしろ武器(とくに大砲などの大物)や弾薬、食料や乗用馬など、その後の軍事行動に即使えるものの略奪は、上官によって奨励されたとすらいえます。

Duck Soldiers inspecting coffers

Jacob Duck (1630s) 調度入れを物色する兵士 In Wikimedia Commons

当時の兵士たち個人にとっては、合法的な臨時収入にも相当します。ここに挙げた絵画のように、いったん隊の単位でまとめてから分配します。もちろん、遺体が高価な金鎖でも身に付けていれば、こっそり自分のポケットに入れてしまう兵士も居たでしょう。兵士たちは、衣服や装備などは自分で使うこともありますが、従軍商人に売って現金に換えたり、女性へのプレゼントやツケ払いにも利用します。兵士だけではなく酒保商人たち自らも、こぞって遺体から金目のものを奪い取り、キャンプ内での略奪品のマーケットは非常に活発でした。

行軍(移動)中の略奪 Looting/Plundering

Soldiers plundering a village, Droochsloot

Joost Cornelisz Droochsloot (17th century) 兵士による村の略奪 In Wikimedia Commons

オランダ軍のキャンプ生活」には、行軍中の宿で休憩する平和な兵士たちの様子を挙げましたが、三十年戦争期というと、こちらのほうが一般的です。進軍中に飢えた兵が食料を調達するもっとも簡単な方法は、兵士同士の争いではなく、武器を持った兵が武器を持たない一般市民を襲うものです。相手が丸腰だろうが、抵抗しようがしまいが、放火や殺人も厭わないほどの暴力的なものです。

Vrancx Soldiers Plundering

Sebastian Vrancx (1620) 三十年戦争期の兵士による農家の襲撃 In Wikimedia Commons

こちらは農家の屋内の様子。女子供どころか乳幼児が居ようとお構いなし。略奪する側にも子供がいます。

Sebastiaan Vrancx - Soldaten ueberfallen ein Fuhrwerk mit Reisenden

Sebastian Vrancx (1600-1647) 旅人に追剥ぎする兵士 In Wikimedia Commons

こちらは馬車ごと奪ってしまう追剥ぎ。まさに身ぐるみ剥ぐとはこのことです。とくに、ある特定の国や君主に恒常的に雇われているわけではない、金次第で主人を渡り歩く傭兵団などは、ほとんど野盗に等しい状態で、このように行く先々の村・農家・旅人から日々の食い扶持を略奪していました。

Pieter Brueghel Jr Peasants fight with soldiers

Pieter Brueghel (II) (17th century) 農民と兵士の戦い In Wikimedia Commons

兵士の一隊が小規模の場合、このように農民の反撃に遭い、逆に殺されてしまうこともあります。

三十年戦争を扱った映画『最後の谷』では、まさにこのような傭兵隊が話の中心となります。山間の村にやってきた傭兵隊たちが村を略奪しようとしているのを阻止するため、「この小さな村を一時的に略奪しただけでは冬は越せないので、冬の間留まり村人と共存した方が得だ」、と主人公が隊を説き伏せるところから物語は始まります。

占領都市の略奪 Sack

Eduard Steinbrück Die Magdeburger Jungfrauen

Eduard Steinbrück (1866) マグデブルクの略奪(歴史画) In Wikimedia Commons

移動中の略奪や小村の略奪は大規模な軍隊でも小規模な一団でも起こり得ますが、攻囲戦のうえ占領された都市の略奪は、明らかにある一定数を揃えた軍隊によって行われるものです。とくに、その司令官が略奪を奨励した場合には、数万人の人口の都市でも、数千から数万単位の兵によって徹底的に破壊し尽くされてしまいます。

三十年戦争期だとマグデブルクの略奪(1631)が有名です。マグデブルク攻囲戦ののち、ティリー伯とパッペンハイム伯によって街は占領され、その際兵士たちによって殺戮・破壊・強姦・放火などあらゆる暴力行為がおこなわれました。陥落前に3万人居た人口は、この事件の8年後にも500人程度までしか回復しなかったといいますから、いかに壊滅的な被害だったかがわかります。しかもこのときカトリックのパッペンハイム伯は、プロテスタントの住民たちの虐殺について「神は我等と共にある。我が軍の兵士たちは誰もが富んだ」と、悪びれる風もないどころか天罰であるとすら信じきっているようです。

初回の開城交渉を呑まなかった都市に対しては、懲罰的な意味合いとして、占領後の略奪も已む無しというのが当時の一般的な認識でした。しかし軍制改革後のオランダ共和国軍では、このような占領地への不法行為は厳しく罰せられました。オランダの場合は処罰のためではなく奪還のための攻囲戦なので、無傷で取り戻して連邦に組み込むことを第一義としていました。開城の交渉条件が比較的緩いのも、被占領側の敵意を抑え、賠償金や軍税の取立への障壁を低くするためです。わざわざその支払能力を下げるような破壊行為はもってのほかとされたわけです。

「反乱」期の殺戮を伴う略奪 Fury

Incendio Ayuntamiento Amberes

Franz Hogenberg (16th century) アントウェルペンのスペイン兵の狂暴 In Wikimedia Commons

八十年戦争初期の「反乱」時代のネーデルランドでは、上記のsackとほぼ同様の懲罰的な略奪(fury: 「狂暴」などと訳します)が複数回に渡って起こっています。「給料未払いと反乱」の項でも若干触れましたが、街の襲撃ののち、主には給料未払い理由のため、兵士たち自らが被占領地で報酬を物色し略奪したものです。たまたまスペイン軍での給料の未払いが多かったためにスペインが目立つだけで、他国の兵によっておこなわれたこともあります。

  • 「スペイン兵の狂暴」 メヘレン 1572/10/2
    アルバ公ファドリケによる「ドン・ファドリケの遠征」の最初の都市
  • 「スペイン兵の狂暴」 マーストリヒト 1576/10/20
  • 「スペイン兵の狂暴」 アントウェルペン 1576/11/4
    サンチョ・ダビラによる最も大規模な略奪
  • 「イングランド兵の狂暴」 メヘレン 1580/4/9
  • 「オートペンヌ卿の狂暴」 ブレダ 1581/7/26-27
    ベルレーモン伯クロード率いるスペイン兵による略奪
  • 「フランス兵の狂暴」 アントウェルペン 1583/1/17
    アンジュー公フランソワによる略奪未遂

とくにもっとも大規模だったといわれる1576年のアントウェルペン略奪では、もともと裕福な商業都市の略奪品のみならず、多額の身代金を獲得したことによって、一般兵士でも将校以上の収入を得たといいます。

オランダ共和国軍による殺戮を伴う略奪

Plundering Tienen 1635

Unkown (1635) ティーネンの略奪 In Wikimedia Commons

上でも述べたように、オランダ共和国軍では占領地への暴力行為は厳しく禁じられていました。何ヶ月もタダ働きのスペインのフランドル方面軍に比べ、給料が定期的に支払われていたことだけでも、必要悪としての略奪が少ないのは明らかです。

市民も自分たちの家が兵たちの宿舎になることを嫌がっておりません。それどころか市民たちは妻や娘を兵たちと一緒に残したまま家を留守にすることも躊躇わないのです。 ―菊池良夫「傭兵の二千年史」 p.134

一般市民の家に宿営するオランダ軍兵士はこれほどまでに行儀の良い兵でした。これはヴェネツィア大使が本国のドージェに書き送った内容だそうですから、1620年代以降の話でしょう。

ここまで市民に信頼されている規律のあるオランダ軍でも、ときには虐殺を伴う略奪が発生してしまったことがあります。戦闘の興奮とそれに勝利した高揚感の状態にあるとき、ちょっとした引き金で兵が暴走を始めると、将校や司令官でも全く制御が効かなくなってしまいます。

  • ユイ占領 1595年 誘引:特に無し(規律の低下)
    ルクセンブルク遠征に伴うシャルル・ド・エローギール軍による占領
  • ブレーデフォールト攻囲戦 1597年 誘因:街外れの火事
    ナッサウ伯マウリッツの「1597年遠征」
  • エルケレンツ襲撃 1607年 誘因:被占領側の開城条件への反発
    ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクの小隊による襲撃
  • ティーネン占領 1635年 誘因:火薬庫の爆発
    オランイェ公フレデリク=ヘンドリクと仏シャティヨン元帥ガスパール三世との合同指揮

これらはすべて食うに困っての略奪とは訳が違うため、さらに性質が悪いともいえます。いずれも街全体が廃墟となるに等しい大損害を与えました。北部七州に含まれない場所のほうが多いので、「自宅」ではないという意識もあるのかもしれません。とくに1635年のティーネンでは、聖職者や女性に対する蛮行が凄惨を極め、貴重な文化財や芸術品も焼失してしまいました。しかしいつの世も人は火を見ると興奮するものなんでしょうか…。

ジャック・カロ「戦争の惨禍」に見る規律違反者への懲罰

いくつもの隊が集まって構成されている比較的大きな単位の軍隊では、略奪や暴動は規律を乱す行為として、罰せられる場合は相当に重い刑罰となります。基本的には他の兵への見せしめのためにも死刑とされ、その内容によっては苦痛を伴う残虐的な方法の場合もありました。ジャック・カロの三十年戦争期に描かれた一連の版画シリーズ「戦争の惨禍」にもいくつか挙げられています。

The firing squad by Jacques Callot

Jacques Callot (1633) 銃殺刑 In Wikimedia Commons

貴重な弾薬を使っての刑なので、頻繁におこなわれたわけではないようです。銃殺はこのような公開処刑よりも、戦場での戦闘中に逃亡や造反を企てた兵士に対してその場で下されました。

The Hanging by Jacques Callot

Jacques Callot (1632) 絞首刑 In Wikimedia Commons

「三十年戦争」をひとことで表す絵として非常に有名なのがこの絞首刑の絵です。ここでは枝振りの良い樹が描かれていますが、上の方で挙げた馬車からの略奪の絵にもあるように、当時はあちこちに絞首台が設けられており、もっともポピュラーな刑罰でした。

この絵のように、たくさんの人間を一度に処刑するにも便利(?)です。上官に反乱を起こした一隊丸ごとだったり、占領都市で暴れるなど対象となる人間が非常に多い場合には、クジ引きでハズレを引いた者が刑に処されたりしました。たとえばクジ引きの一例としては、ワラ束が用意され、そのうち12本にだけ先端が赤く塗ってあります。この場合反乱を指導したリーダーに加え、不幸にも赤を引いてしまった一ダースの兵士が一緒に吊るされることになります。

また、絞首刑は縄と吊るす場所さえあれば準備にも手間がかからないため、すぐに執行されるものとしても向いています。映画『クロムウェル』でも、クロムウェルが「そいつを縛り首にしろ」と言ったものの数十秒後、思いとどまって後ろを振り向くと、すでに男は吊るされていた後だった、というシーンがあります。クジ引きでハズレを引いた兵などには、逃げられてしまわないように、周りの人間(とくに当たりを引いた兵は自分にお鉢が回ってくるのを防ぐため必死です)が即座にその首に縄をかけ、暴れないように押さえつけます。それだけを見ても、いかに絞首刑が日常茶飯事だったかがわかります。

The Strappado by Jacques Callot

Jacques Callot (1633) 吊り刑 In Wikimedia Commons

これは拷問としても使われていた方法です。拷問のまま終わって命までは取られないこともあれば、このまま縄を切って地面に叩き付けて処刑してしまうこともあります。

The Stake by Jacques Callot

Jacques Callot (1633) 火刑 In Wikimedia Commons

火刑は魔女裁判でよく用いられた方法ですが、軍隊でも使われていたんですね。

The Wheel by Jacques Callot

Jacques Callot (1633) 「車輪」の刑 In Wikimedia Commons

専門の処刑人によっておこなわれる、ここに挙げた中ではもっとも残虐な刑罰。工程があって時間もかかり、見せ物としてのエンターテインメント性の高いものです。このような性格をもつ車輪や四つ裂きなどの処刑は、多くは大逆罪(国家反逆や元首の命を狙うなどの大罪)に対しておこなわれました。

その他「戦争の惨禍」の一覧と各版画の詳しい説明はこちら(仏語)。
Les Grandes Misères de la guerreEn Wikipédia: le d’encyclopédie libre

リファレンス

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