マウリッツ・ファン・オランイェ=ナッサウ Maurits van Oranje-Nassau

Michiel Jansz van Mierevelt - Maurits van Nassau, prins van Oranje en Stadhouder

After Michiel Jansz. van Mierevelt (1605-1615) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公 Prins van Oranje, ナッサウ伯 Graaf van Nassau, 州総督 Stadhouder (フリースラントを除く6州), 陸海軍総司令官 Kapitein-Generaal
  • 生年: 1567/11/14 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1625/4/23 ハーグ(蘭)/デルフト・新教会

生涯

ウィレム一世と二番目の妻アンナ・フォン・ザクセンとの一人息子。ウィレムの正嫡としては次男。ドイツのディレンブルクで生まれましたが、母アンナの不行状から母とは引き離され、また、父はネーデルランドの反乱を指揮していたため、叔父のヤン六世夫妻に大勢の従兄弟たちとともに育てられます。1576年から1年程度、従兄たちとともにハイデルベルクで学び、翌年父のいるネーデルランドに呼び寄せられました。最初アントウェルペン、のちブレダ、デルフトに住んでいます。1582年、父ウィレムの暗殺未遂の際にその場に居合わせ、犯人ジャン・ジョルギーの身元を割り出しています。翌1583年からレイデン大学で学ぶことになりましたが、ここで人文学者リプシウスと出会い(リプシウスの自宅にも下宿していました)、軍制改革のヒントを得たと考えられます。1584年、弟フレデリク=ヘンドリクが生まれると、代父としてその洗礼式にも参加しましたが、そのわずか1ヶ月後に父ウィレムが暗殺されてしまいます。

父親の暗殺時に16歳の未成年だったことと、長男ではなかったことから、この時点で父親の職務をそっくりそのまま継承するには不適当とされました。が、ホラント州法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの計らいで、翌年には国務会議の長官職と、「公 Prins」および「閣下 Zijn Exellentie」の称号を得ます。また、はじめゼーラント州、ついでホラント州によって州総督に任ぜられ、さらに、1587年にイングランドのレスター伯が失脚して帰国すると、陸海軍総司令官(陸軍の大将軍と海軍の大提督を兼任するもの)となってオランダ軍の最高指令職に就任しました。最初に軍務に就いたのはそれより前の1586年ですが、陸海軍最高指令官となると間もなく軍制改革に着手することになります。称号としては大提督も兼ねているものの、本人が海軍を指揮したことはありません。

1590-1600年にかけて、おもに攻城戦を指揮し、共和国の北部・東部・南部の国境をほぼ制定しました。約95の都市や砦をスペインから奪還しています。「軍制改革」「マウリッツの十年」「ニーウポールトの戦い」に関しては、それぞれ別記事のリンクを参照ください。この功績もあり、1612年(ハーグでの英大使による授与式は1613年2月4日)にはイングランド王室からガーター勲章が授与されています。

1604年以降、スペインにスピノラ将軍が現れてからは、東部国境において一進一退の攻防を繰り広げることになります。1607年以降、連邦議会およびスペインで和平の機運が高まると、マウリッツをはじめ軍部は反対を通しましたが、最終的に1609年から12年間の休戦条約が締結されました。休戦直後に今度は国内問題が浮上し、議会派と軍部の反目に宗教対立が重なって、共和国は内乱寸前の状態に陥ります。詳細は、「宗教論争からクーデターへ」参照。ドルトレヒト公会議とオルデンバルネフェルトの処刑で対立は一応の決着を見、「州総督優位の時代」が始まることになります。

かといって、父ウィレム同様、本人には決して「王」や主権者になる意思はありませんでした。「そんなもの(王)になるくらいなら、自殺したほうがマシだ」とまで言っているほどで、あくまでも自らの立場は「一官吏」であると強調しています。逆にこの姿勢が、オランイェ家を王にと望む支持者たちの人気をも、徐々に失っていく要因にもなっていきました。

当時の軍人らしく、非常に酒好き女好き。早くより自らの非婚と、弟フレデリク=ヘンドリクを後継者とする旨を表明していたため、正嫡子はいません。しかし、私生児を生んだ愛人だけで6人(すべて身分の低い女性)が数えられており、従兄のウィレム=ローデウェイクには「ある種の卑賤結婚だ」と揶揄されていました。私生児のうち成人したのは男子4名と女子3名。男子4名は全員、オランダ軍で軍務に就いています。彼らの仕官や結婚は弟フレデリク=ヘンドリクが根回ししました。マウリッツ本人は、遺言補足状を作成する段になるまで、完全に私生児たちを放置していたようです。ちなみに非婚を通した理由や、身分の低い愛人ばかりを選んだ理由には、母アンナ・フォン・ザクセンに対するトラウマを挙げている研究者がほとんどです。個人的には、金銭的な理由も少なからずあると思っています。(当時の貴族は、男女とも結婚するのに莫大な支度金が要ります)。

というのもマウリッツは相当な守銭奴で、父ウィレムの財産が回復されてからはその遺産を巡って兄や姉と激しく争ったこともあります。父の財産は没収され借金まであったこともあり、父ウィレムの死後20年前後は、ナッサウ家は非常に困窮していました。本人の生活スタイルも至って地味であり、常に黒い服を着ていて(これは信教的な理由もあります)、軍のキャンプや無骨なビネンホフの部屋を好んでいました。その地味っぷりには、義理の姪でもあるプファルツ選帝侯妃エリザベス・ステュアートも驚いたほどだったそうです。唯一馬にだけは目がなく、金に糸目をつけずに良血馬を集め、ハーグ近郊のレイスヴェイクに広大な厩を持っていました。また、亡くなる際には妹エミリアの財産を一銭残らず取り上げて、すべて弟のフレデリク=ヘンドリクに遺しています。

壮年期には攻囲戦の途中で、何度か伝染病を患ったこともありますがいずれも快癒しています。しかし1610年代後半から、長年の不摂生のため慢性的な肝疾患や通風に悩まされるようになります。1624年に入ると容態が悪化し、当時攻囲戦争を行っていたブレダへの援軍の指揮を弟に引き継ぎました。いよいよ死期が迫ったと悟ると、弟を戦場から呼び戻し、オランイェ家の継続のため結婚を強要しました。フレデリク=ヘンドリクが結婚しなければ、彼の相続権を取り消して自分の私生児を跡継ぎにせざるを得ない、という半ば脅迫です。フレデリク=ヘンドリクは4月4日に慌しく結婚式を挙げましたが、マウリッツはその前日に肝硬変の手術を受けており、何が何でも生きて見届けるつもりだったようです。

「オランイェ公」となったのは遅く、1618年、兄フィリップス=ウィレムが死亡すると、この時になってやっと正式にオランイェ公となりました。しかしこれ以降の時期も、自分からはほとんど「オランイェ公」を名乗っていません。オランイェ領にも――オランダのどの街よりも堅牢な巨大要塞を築かせたものの――生涯直接赴くことはありませんでした。このサイト内でも、明らかに1618年以降の話題のみで「オランイェ公」をの称号を用い、基本的には「ナッサウ伯」と記述しています。

趣味はチェス(下手の横好き)・狩猟・数学・馬(コレクションと調教)。食事には無頓着で、食えりゃ何だってメシ。家具調度にも興味無し、タンスはタンス。ファッションにも無関心…と見せかけて、ダイヤにはこだわりがあるようです。

インド洋に浮かぶ島嶼国家モーリシャスの国名はマウリッツに由来しています。1598年、オランダ東インド会社の前身にあたる東インド行きの船団によって名づけられました。
モーリシャス共和国公式HP 「Republic of Mauritius / History」(英語)

リファレンス

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